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平民宰相・原敬を首相に押し上げた「聞く力」 清水唯一朗・慶応大教授に聞く(上)

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 100年前の1921年11月4日、「平民宰相」原敬(1856年~1921年)が暗殺された。100年前にパンデミック(世界的な感染爆発、スペイン風邪)に罹患(りかん)しつつも強力なリーダーシップを発揮したのが原だった。ただトップまでの道のりは悪戦苦闘の連続だった。それでも挫折のたびに指導者としての教訓を学び取り、最後に原を首相の座に押し上げたのは「聞く力」だったという。「原敬」(中公新書)の著者、清水唯一朗・慶応大教授に現代ビジネスパーソンにつながる原のリーダーシップを聞いた

 「閥族からの脱却」目指したキャリアパス

 ――原敬は、明治維新の戊辰戦争で「賊軍」となった東北・南部藩の家老格の次男です。薩長の藩閥とどう向き合うかは原の生涯のテーマになりました。

 「原は『閥族からの脱却』を目指してキャリアパスを築いていきました。薩長閥のほかにも陸軍、官僚、貴族院、ライバルの憲政会などとも闘わねばなりません。自党の政友会内にも強力な政敵が存在しました。ですから、ただ闇雲に突進したのではありません。閥族とも時に妥協・協力しながら政党政治を確立していったのです」

 「維新後の明治政府は深刻な人材不足に直面していました。とりわけ企画・立案、プロジェクト遂行に優れた若手が足りず、かつての敵方からも人材を得なければなりません。『朝敵』となった徳川慶喜の腹心から大蔵省(現・財務省)に出仕した渋沢栄一(1840年~1931年)は典型的なケースです。藩閥政府の要人が藩閥外の優秀な若者を女婿にするなどして個々に取り込んだケースも少なくありません。原も同様です。明晰(めいせき)な頭脳と事務の才幹の持ち主であった原は、新聞記者を経て外務省に入り、次官まで上り詰めました」

 ――原が外務省退官後の大阪毎日新聞社社長から政界入りしたのは、1900年(明治33年)に伊藤博文(1841年~1909年)の立憲政友会(政友会)創設に参画してからです。西園寺公望(1849年~1940年、後の首相)が仲介し、原の卓越した実務能力が買われたとされます。

 「第4次伊藤内閣(1900年)で原は外相候補で、ポスト獲得のために盛んに運動したものの外相になることはできませんでした。第1の挫折です。原因は大阪毎日社長の後任問題でした。原は発行部数を3倍に伸ばした功労者でしたが、後任候補が長らく敵対した人物だったので猛烈に反対し、相手が内定済みと聞くと社長居座りを示唆するほど感情的でした。後任の中間派社長決定まで収拾に時間を要しました。その後の原は、好き嫌いの感情を制御するようになります。もっとも『原日記』にはあけすけに心情を吐露していますが」

 ――それでも原の能力を周囲は放っておきません。遅れて逓信相で入閣し、その後も政友会でキャリアを積みました。第2次西園寺内閣(1911年)では内相として入閣し、副総理格として政権を動かします。積極財政を掲げ、自派議員の地元のために利益誘導の鉄道建設を進めたともいわれます。

 「いわゆる『我田引鉄』は実態とは乖離(かいり)した評価であることが、現在では明らかになっています。全国各地から数多く寄せられる鉄道プランの中から、必要不可欠なものを選択したのが実態です。ただ国内の交通インフラ整備は原の重要な政策テーマで、各地の物産を手早く流通できる全国網の早期確立を目指しました」

 ――第2次西園寺内閣は総選挙にも勝利し長期政権も期待されました。しかし現実は1年3カ月で退陣しました。

 「第2の挫折でした。陸軍が大幅な財政出動を要求する『二個師団増設問題』がカギでした。当時の陸軍大臣が単独辞任し、内閣総辞職に至りました。ただ原は西園寺首相とともに、あえて負け戦(いくさ)を選んだフシがあります。妥協できそうでも見送ることで、軍備より民生重視の姿勢をアピールしました。原はこの問題で、陸軍やそのバックの元老・山県有朋(1838年~1922年)ら強大な敵方との闘い方を学んだでしょう。原の政略は一直線でなく、より重層的になっていきました」

 

 

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