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「本能寺」前の大雨、秀吉を天下人に 天候リスクの教訓 気象予報士の田家康氏に聞く

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 本日からちょうど440年前の1582年(天正10年)6月2日、「本能寺の変」で織田信長は明智光秀の造反に倒れた。その光秀をいち早く討ったのが、信長の後継者として天下統一を果たした羽柴(豊臣)秀吉だ。「気候で読み解く人物列伝 日本史編」(日本経済新聞出版)の著者、田家康氏は梅雨の天候が秀吉に味方したと分析する。「直前の5月24日に降った大雨が、結果的に秀吉を天下人に押し上げた」と田家氏。本能寺のエピソードは企業経営における天候リスク管理の教訓になるかもしれない。

 秀吉の水攻め、一時水位が下がる

 1582年の信長と中国地方・毛利氏の対決は、西日本全体から東海・中部・北陸地方までを巻き込んだ、戦国時代の決勝戦だった。毛利氏は大阪・本願寺、室町幕府15代将軍・足利義昭、上杉景勝(新潟県)、武田勝頼(山梨県、1582年3月に滅亡)らと広範な「反信長」包囲網を敷いた。逆に信長は四国の長宗我部氏(後に反目)、九州の大友氏・島津氏らと反毛利包囲網を構築し対抗。中国方面の担当司令官だった秀吉は、同年春に毛利方の最前線・備中高松城(岡山市)を水攻めにした。近くを流れる足守川に堤防を築き、城の堀に水を引いて孤立させる作戦だ。

 田家氏は「尾張(愛知県)出身の秀吉は木曽三川(長良、木曽、揖斐)の地域を熟知しており、堤防の構築には知見があったのだろう。さらに梅雨時で河川量が増大した」と話す。足守川の水をせきとめる東南約4キロの堤防を、秀吉は4月半ばから約10日間で完成させたと伝えられる。

 当時の一次資料は高僧や貴族の日記。田家氏は「多聞院日記」「家忠日記」「兼見卿記」などを精査し、同年の梅雨入りを4月29日(現在の5月31日)と推定する。「秀吉の工事はぴったり間に合った」と田家氏。大雨で高松城は周囲に約200ヘクタールもの人工湖が出現し、城内まで浸水したという。

 ただ、その後は梅雨晴れが続くなどで水位が上がらない。毛利家家臣・熊谷信直の 5 月 22 日付書状には、「高松城の水位は以前よりも下がっている」とあり、秀吉による水攻めは決して順調ではなかった。毛利軍としては、このまま雨が降らなければ、信長の来援前に城方と示し合わせて秀吉を挟撃する計画だったのだろう。

 しかし「熊谷が楽観的な見通しを示した直後、24日の大雨が毛利方の決戦策を台無しにした」と田家氏は指摘する。高松城は水没寸前になるまで水かさが増し、戦意を失った毛利氏は180度方針転換して、5カ国割譲を核とする講和案を秀吉に提示した。その交渉中に本能寺の変が起きた。

 

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