BizGateリポート/経営

回避のはずが大戦争 第1次大戦、ウクライナへの教訓

記事保存

日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。

 セルビアの回答は「外交的あいまいさの傑作」

 オーストリアの対応は遅く、セルビアへの最後通告は23日。対してセルビア側は25日の回答で、要求を全面的に承諾したかにみえた。北欧クルージングから帰国したカイザーはオーストリアには戦争する理由がなくなったとみて、両国の仲裁に乗り出す意向すら示したという。ところがウラがあった。飯倉氏は「セルビアが示したのは個々の条項に受諾、部分的受諾、留保、回避などを付けた『外交的あいまいさの傑作』と呼ばれる回答だった。驚くほど何も与えていなかった」と指摘する。オーストリアは在セルビア公使館を閉鎖した。

 国際情勢の急変を受け、厳しい選択を迫られたのがロシアだ。セルビアを支援して軍事的にも経済的にも強いオーストリアの同盟国ドイツと全面対決するか、圏外に身を置いてスラブ系盟主の立場を放棄するかの選択だ。ロシア皇帝(ツァー)ニコライ2世はどっちつかずの方針を採用し、軍の「部分動員」を決めた。ドイツを刺激しないように同国の隣接地域からは徴兵を控えた。しかし、それでドイツが納得するはずもない。「ロシアはドイツの警告を最後通告と誤解し、総動員に切り替えた。ただカイザーから説得の電報を受けるとツァーは部分動員に戻し、翌日には総動員を再び承認した。優柔不断なツァーの迷走は軍事的緊張を高めただけだった」と飯倉氏は分析する。

 ロシアの動きを止められる唯一の存在は同盟国のフランスだ。ポアンカレ大統領や非戦派とされるビビアーニ首相は、他国の争いに巻き込まれたくなかった。それでも最後はロシアに同調した。飯倉氏は「ロシアの軍事力がないと、フランス単独ではドイツ相手に持ちこたえられないと判断した」と分析する。オーストリア開戦後も紛争拡大を望んでいなかったドイツのカイザーも、ようやく戦争を決意した。

 最後の焦点は英国の動向に移った。当時のアスキス政権はアイルランド問題に忙しく、外交面は在職9年目で他国へも大きな影響を及ぼせるグレー外相が仕切っていた。「グレーは遠い南東ヨーロッパの事件が原因で、大国同士が戦うことを理不尽だと感じていた」と飯倉氏。ただオーストリアの最後通告の時点が調停役を買って出る絶好のタイミングだったのに、グレーは時期尚早とみて趣味のフライフィッシングに出かけてしまった。この判断ミスをグレーは終生後悔したという。

 フランスは英国の参戦を期待し、逆にドイツは英国自身の中立と、フランスにも中立を説得してくれることを望んだ。グレーは両陣営に「魅力的なまでにどっちつかずでジェントルマン風のスタイル」(飯倉氏)で言質を与えなかった。一時的にカイザーは、英国がフランスの中立を約束してくれたと誤解し、軍部の反対を押し切ってドイツ軍移動を緊急停止させたこともあった。しかし、最終的に英国はフランス側での参戦を決めた。「露仏だけで勝利すれば海外の植民地での影響力がそがれる。ドイツが勝てば欧州大陸で抜きんでた存在が出現する――。どちらも英国の利益にそぐわなかった」と飯倉氏は分析する。ドイツは8月1日にロシア、3日にフランスに宣戦布告した。英国がベルギーの中立侵犯を理由にドイツと交戦状態に入ったのは4日だ。

 各国の誤算はなおも続いた。西部戦線でドイツは、参謀本部が長年練り上げていた、約40日間でフランスを打倒する「シュリーフェン計画」を発動させた。フランスも短期決戦を志向した。「各国の兵士はクリスマス前には帰郷できると思っていた」と飯倉氏。しかし形ばかりの抵抗で済むと見越していたベルギーが抗戦し、マルヌの戦いでフランスに勢いを止められると、シュリーフェン計画は挫折した。ドイツとフランスは長期の塹壕(ざんごう)戦を戦うことになった。一方、東部のタンネンベルグの戦いでドイツはロシアに完勝。しかしオーストリア軍は勝ちきれなかったため、こちらもおびただしく人命を失う消耗戦に移った。

 「講和ではない。20年の休戦だ」

 飯倉氏は「第1次世界大戦の原因は、学術的にはコンセンサスがないのがコンセンサスとも言われるような状態が続いている」と話す。愚かな指導者が愚かな戦争を始めたとは言えない。カイザー、ベートマン、ポアンカレ、ビビアーニ、アスキス、グレー……各国首脳陣は豊かな個性と知性を持ち、普仏戦争(1871年)以後は欧州中心部での武力紛争を許さず、経済成長の拡大と資本主義がもたらす社会問題の解決に取り組んできた。地政学的な力関係や国益についてもほぼ正確に把握していた。だが未曽有の局面を前にして、こちらに戦う気がないのに相手は着々と開戦準備をしているという恐れが事態をエスカレートさせていった。「臆測や個人的な利害、希望的観測などに振り回されて大戦争の渦中に巻き込まれてしまった」(飯倉氏)。

 1919年のベルサイユ講和会議で大戦は終わった。しかしフォッシュ連合国総司令官は「これは講和ではない。20年の休戦だ」と評したという。ちょうど20年後の39年9月、独ヒトラー政権はポーランドに侵攻し第2次世界大戦が始まった。この時も英仏が参戦してこないと、直前までヒトラーは見込んでいたという指摘がある。

 (松本治人)

閲覧履歴

    クリッピングした記事

    会員登録後、気になる記事をクリッピングできます。