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二・二六事件 早期鎮圧の背景にマーケット? 軍事史研究家 藤井非三四氏に聞く(下)

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 近代日本で唯一のクーデター「二・二六事件」(1936年)は、なぜ失敗したか。「昭和天皇の早期鎮圧の意志が揺るがなかったからだ」という答えに加え、マーケットの維持という経済運営上の理由という見方も出ている。株式・商品取引所は一斉に休会した。「手形交換所も閉鎖し、3月2日(月)までに収拾しなければ日本経済に大きな打撃を与えるという懸念が、最終的に陸軍を討伐命令へ向かわせた」とする軍事史研究家の藤井非三四氏に聞いた。

 1936年2月28日(金)午前2~3時頃。二・二六事件の開始から2日たった東京・九段下の戒厳司令部にはクーデター派に同情的な将校が詰めかけ、こもごも武力行使の延期を情理交えた形で訴えていた。無表情で聞いていた石原完爾大佐(当時・参謀本部作戦課長、満州事変の中心人物)は、やおら「ただちに攻撃、命令受領者集まれ」と号令し部屋を出て討伐命令を口達した。事態は一気に収束の方向へ向かったとされる。

 昭和天皇の鎮圧方針は早くから決まっていた。クーデター当日の2月26日は早朝6時20分に起床し、午前中には「速やかな鎮圧」を陸軍大臣に指示した(『昭和天皇実録』から)。側近として昭和天皇を補佐したのは木戸幸一・内大臣秘書官長(後の内相)だった。木戸は近衛文麿(後の首相)ら政界の実力者と連絡を取り合い、さまざまな動静を分析して、宮中に泊まりこみでクーデター側が望む暫定内閣の構想などを全て潰していった。昭和天皇もクーデター側に同情的な側近を厳しく叱責した。最後は「朕(ちん)自ら近衛師団を率いて鎮圧に当たらん」とまで語ったとされる。

 それでも陸軍首脳部はすぐには動けなかった。クーデターの黒幕がいるかどうかが不明な上、テロ行為は論外としても「昭和維新」の趣旨に賛同する高級将官は陸軍省などに少なくなかったからだ。さらに藤井氏は「日本軍同士が衝突すれば、国民に徴兵制そのものを疑問視されかねなかった」と分析する。徴兵制は原則20歳以上の男性国民の義務で、クーデター側には1月10日に入隊したばかりの初年兵が多かった。中隊長の命令に従って出動し、反乱軍として処罰されたり戦死したりしたら、若い兵士の父兄に説明がつかない。実際、東京の憲兵隊の資料には「税金を納めて子弟を兵隊に出し、そのカネと子供を使ってヒト殺しされれば世話がない」という市民の捨てぜりふが記録されていたという。

 石原大佐は当初、26日深夜(27日未明)に東京・帝国ホテルでクーデター側の代表者や同調者らと接触し、体制側とクーデター側の双方に受け入れ可能な、後継首班の人選まで相談していた。藤井氏によると、石原の態度が一変したのは27日夕方。大蔵省(現・財務省)の中堅幹部が戒厳司令部を訪れ「できれば月末の29日まで、少なくとも3月2日の月曜日までに正常に戻してもらわないと、日本経済は収拾のつかない事態に陥りかねない」とかき口説いてからだ。戒厳司令部に詰めていた当時の陸軍担当記者から直接聞いたエピソードだという。石原は産業振興と軍備増強を連携させる「高度国防国家」の提唱者だったから、財政当局の訴えにピンと来るものがあったようだ。

 二・二六事件で卸売取引は総見送りとなり、百貨店も1~3割の売上減少を記録した。各銀行は平常通りに営業したものの、万一の取り付け騒ぎに備え手元資金を充当させた。司法省(現・法務省)は民法の規定に従って手形の支払期日の2日延長を決めた。それでも手形交換の業務停止が長期化しれば、企業の倒産に結び付きかねない恐れがあった。休会した東京株式取引所(当時)は順次復旧していったものの、全面的に再開したのは3月10日だ。

 英米市場では日本の公債にマイナスの影響が出てきて、為替レートも円安に振れ始めたという。横浜正金銀行(後の東京銀行、現在の三菱UFJ銀行)以外は外国為替業務を中止し、「円」を不安視した輸入業者らが外国為替の買い付けに走ったとされる。

 『昭和天皇独白録』には「町田忠治(商工相、高橋是清蔵相が殺害されたため27日に蔵相兼任)が金融方面の悪影響を非常に心配して断固たる処置を採らねばパニックが起きると忠告してくれたので、強硬に討伐命令を出すことが出来(でき)た」との回想が記述されている。 

 (松本治人)

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