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関ケ原の戦い 誤算続きの家康が見いだした一瞬の勝機 歴史研究家の水野伍貴氏に聞く

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 約420年前の関ケ原の戦い(1600年)で、日本中の大名は徳川家康の東軍と石田三成らの西軍とにはっきり二分され、中立はほとんど許されなかった。この一戦は、家康が豊臣秀吉の死後に緻密に計画し、三成ら反家康派を決戦に誘い込んだとされる。しかし、実際には家康の計画は誤算も少なくなかった。それでも局地的な作戦成功に一瞬の勝機を見い出し、迅速な行動で決戦を仕掛けて覇権を握った。現代の経営者にもヒントとなる家康の戦略を歴史研究家の水野伍貴氏に聞いた。

 秀吉が亡くなった1598年8月の世情は暗かった。文禄・慶長の役(1592年~)で朝鮮半島の外征軍は苦戦しており、京都は慶長伏見地震(1596年)の打撃から立ち直れていない。治安も悪化していたという。秀吉は死後に備え、五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)と三成ら五奉行を組み合わせた体制を敷いた。実権は奉行衆にあり三成は常務・社長室長といった役割だ。五大老は社外取締役的な立場で、奉行衆の手にあまる問題を裁定したという。「関ケ原への道」(東京堂出版)の著者である水野氏は「家康は秀吉死去以前から政権獲得へのビジョンを描いていた」と分析する。航海船が難破したオランダ人らを自分の領地に引き入れて、欧州の先端技術の習得を目指していた。ライバル側も家康の野心を敏感に感じ取っていた。奉行衆と毛利輝元は、秀吉が亡くなった10日後に早くも同盟関係を結んだ。

 「ライバルを1人ずつ失脚させるのが家康の戦略だった」

 「家康の最初の計画は、政権中枢にいない有力大名を味方に引き入れることだった」と水野氏。おきて破りを承知で婚姻関係を結ぼうとした伊達政宗は、傍流か地方子会社のトップといった立ち位置だ。家康を除く三成ら大老・奉行の全メンバーは猛反発したが、逆に三成が3カ月後に家康派の加藤清正らから告発を受け失脚してしまった。毛利輝元は家康と「兄弟同然」に交友するという書状を交わし、反家康同盟は約1年で崩壊した。

 「ライバルを1人ずつ失脚させるのが家康の戦略だった」と水野氏は話す。次は前田利家の後を継いだ新大老の前田利長で、家康暗殺をたくらんだと謀略に巻き込み、実母を人質として江戸に送る条件で屈服させた。ただし前田家と姻戚関係にあった大老の宇喜多秀家は不問にした。1回に1人しか相手にしない方針を徹底した。 家康は大坂城を掌握し、奉行衆も家康に従った。

 家康は1600年春、会津・上杉景勝の討伐を目指した。景勝に上洛を促し、返書が戻ってくる前に家康が総大将となる「会津攻め」の準備を始める手回しの良さだ。畿内を留守にすれば反家康派が行動を起こす予感はあっただろう。「しかし小規模にとどまると楽観していた」と水野氏。

 奉行衆の離反で家康の権力構造崩壊

 ところが家康と兄弟同然のはずだった毛利輝元が迅速に動き、三成らに担がれるというより自ら積極的に、西軍の総大将に収まった。第1の誤算だった。宇喜多秀家も加わった。「前田、上杉と続けば次に失脚させられるのは自分らだと恐れたのだろう」と水野氏は分析する。第2の誤算は豊臣政権内で家康の権力行使を補完していた奉行衆も寝返ったことだ。家康は、三成のクーデターを知った後でも奉行は自分の味方だと錯覚し、その関係を手紙で大名らにアピールしていたという。大坂城も押さえられた。「軍事力の問題にとどまる毛利輝元の場合と異なり、奉行衆の離反は家康の権力構造の崩壊を意味した」と水野氏。より危機感を募らせたという。

 家康からすれば北の上杉、西の毛利に挟撃されるのが怖い。三男の徳川秀忠(後の2代将軍)をしばらく下野(栃木県)に置き、会津攻めに参加していた福島正則ら豊臣系大名を清洲城(愛知県)に派遣した。家康自らは江戸から動こうとせず長期抗戦の態勢を敷いた。長期戦になるとの予想は西軍も同じで、毛利軍は四国などを攻めていた。

 岐阜城陥落成功で長期戦構想捨てる

 水野氏は「家康の第3の誤算は、清洲城の先発隊が予想以上に戦闘意欲が旺盛で強かったことだ」とみる。福島正則らは1日の戦闘で難攻不落といわれた名城の岐阜城を陥落させた。この勝報を受け取るや、家康は長期戦の構想をあっさり捨て、即座に江戸を出発した。スピード行軍で先発隊と合流し、秀忠の別動隊到着も待たずに関ケ原の戦いに臨んだ。

 水野氏は「家康の戦略は常に複層的だった」と話す。婚姻問題は武力衝突も視野に入れながら、最終的には対立した前田利家と妥協した。三成を失脚させた時は調停者として振る舞い、加藤清正らが主張する切腹処分を退けた。ただ関ケ原の戦いにおける一番の勝因は、誤算だらけの中で一瞬の勝機を見いだした機敏さだろう。「自分が参戦しない形で、戦いが終わることを家康は恐れたのかもしれない。戦後の発言力に関わってくるからだ」と水野氏はみている。

 (松本治人)

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