戦略は歴史から学べ

勝てる領域で勝つ ユニクロと北条時宗の市場差別化戦略 MPS Consulting代表 鈴木博毅

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 ビジネスの戦略を立てるうえで、歴史上の出来事から学べることは多くあります。この連載では書籍『戦略は歴史から学べ』(日本経済新聞出版)をもとに歴史上の「勝者の戦略」と優れた企業の戦略の共通点を探り、今日のビジネスにも活用できる手法を紹介します。第1回は鎌倉時代に元寇という危機を乗り越えた北条時宗の「市場差別化戦略」です。

 

 北条時宗 勝てる領域を選んで戦えば負けない

1274年 元寇
なぜ、モンゴルの大軍に奇跡的に勝利できたのか?
モンゴルの草原から雄飛して、欧州から中国大陸に広がる巨大帝国をつくったチンギス・ハン。5代目皇帝フビライが日本侵略を計画して2回の元寇が始まる。欧州の騎士、中国の大陸軍、イスラムの戦士を苦しめた元軍と、日本の武士はどう戦ったのか?

 ●モンゴル帝国のフビライ・ハン、日本に大軍団を派遣する

 1199年、鎌倉幕府を開いた源頼朝が死去。2代目将軍を頼家が継ぐも、有力な家臣の梶原景時や比企一族などを北条氏が打倒。若い将軍の頼家は修善寺に幽閉され、3代目将軍の実朝を北条時政が擁立して実権を握ります。

 ところが、娘の北条政子と弟の義時によって時政は幽閉され、義時が執権となります。

 その後、北条政権が確実に土台を固める中で、1251年に北条時宗が生まれます。彼はわずか14歳で執権の連署(同格者)となるほど早熟かつ優れた人物でした。

 海の向こう中国大陸では、モンゴル帝国の5代皇帝フビライ・ハンが1260年に即位。1268年には高麗の使者がモンゴルの国書を持って日本を訪れますが、末尾に「兵を用うるに至りてはそれたれか好むところならん」(村井章介『北条時宗と蒙古襲来』より)と脅しが書かれており、日本を従属させる意図と判断。執権の北条政村と時宗は返書を拒否します。

 フビライは極東の小さな島国が、まさか大モンゴル帝国の要求を断るとは思わず、その後も数回の使者を日本に派遣。しかし日本の対応は変わらず、ついに大軍団が派遣されます。

 ●なぜ、武士はモンゴル軍に歯が立たなかったのか

 モンゴルの国書が届いて数か月で時宗が執権となります。一方、数度の使者派遣で業を煮やしたフビライは、征服した高麗で遠征軍を組織して、最初の元寇を行います。

 ①文永の役(1274年)

 ②弘安の役(1281年)

 文永の役では900艘の船に2万6000人の兵士を乗せて来襲。10月5日、対馬に到着します。対馬を防衛していた武士80騎は上陸部隊数千人と交戦、わずか数時間程度で殲滅され島民も虐殺されます。続く壱岐島でも、籠城した日本側は短時間で全滅。

 10月20日には博多湾に一部が上陸、元軍の上陸拠点に日本の武士は戦闘を挑みますが、集団戦法に圧倒され、火薬の武器や強弓などに驚愕します。「やあやあ、われこそは」と名乗り上げて一騎駆けする日本の武士の戦闘法は、集団で毒矢の雨を降らせて火薬まで使うモンゴル軍に効果が薄いながら、必死に勇戦して上陸地点の拡大を許さず、20日は夕暮れで戦いが終わり、元軍は岸を離れ船団に戻ります。

 暴風雨の夜が明け、日が昇るとほとんどの船団は消え失せており、これを日本側は「神風が吹いた」と考えて残りの船団を殲滅、奇跡に感謝したとされています。

 ただし文永の役は「示威戦闘」の可能性も指摘されています。元軍の主な武将は戦闘後にフビライに報告のため謁見し、戦いの4か月後に元の国書が再び届いたからです。

 時宗はモンゴルの使者を斬首して、その決意を武士に再認識させ防衛に集中します。

 

 

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