天下人たちのマネジメント術

源頼朝を盟主に押し上げた「聞く力」 坂井孝一・創価大教授に聞く

記事保存

日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。

 1180年、源頼朝(1147~99年)は配流先の伊豆(静岡県)で「打倒平家」をスローガンに挙兵した。当初は約40人の弱小勢力だったという。しかし東国の武士団をまとめあげ、5年後に平家を滅ぼし得た頼朝のリーダーシップは何だったのか。後継者の源頼家、実朝にも再評価の動きが出ている。現代の企業社会にもヒントを与えてくれそうな日本史の深層を、創価大の坂井孝一教授に聞いた。

 反平家のシンボル、最悪を想定する重層的思考

  頼朝は自前の兵力を持たず事実上の徒手空拳だった。坂井教授は頼朝が東国武士団の盟主になり得た理由に、軍事貴族(武芸で朝廷に仕える貴族層)の名門・河内源氏の嫡流で「従五位下・右兵衛権佐」の官位を持っていた貴種である点を指摘する。当時の関東地方は、中央で任命された平家系官人が地元の武士団を圧迫していた。坂井教授は「平家勢力を追い出すシンボルとして頼朝は担ぎ出された」という。

  しかし、単に名門の貴公子というだけでは、多種多様な武士団はまとまらない。坂井教授は頼朝のリーダーシップの特徴を①慎重で重層的な思考法②部下に対する「聞く耳」――と分析する。「軽挙妄動とは無縁だった。他人の言葉を鵜(う)のみにしない慎重な判断力や危機管理能力を、頼朝は約20年間の流人生活で身に付けた」と坂井教授。

  例えば旗揚げ直後における伊豆半島での石橋山の戦いだ。平家方に大敗した頼朝は房総半島へ渡海し、散り散りになっていた味方とすぐ合流した。続いて東京湾沿岸を反時計回りに反撃して上総・下総・武蔵・相模(千葉・埼玉・東京・神奈川)などの武士団を糾合した。「石橋山では敗戦の可能性を考え、落ち合う先まで決めておいたのかもしれない。大敗北から鎌倉入りまで僅か1カ月半という奇跡的な再起だった」と坂井教授。さらに頼朝は事前の危機を察知する能力も優れていたという。「甲斐源氏など将来造反するかもしれない勢力を、早め早めに摘んでいった」(坂井教授)。

 「聞く力」を発揮して鎌倉幕府の基礎を固める

  頼朝の「聞く力」は、続く富士川の戦いの勝利後に発揮された。当初は一気に京都までの進撃を目指した。「京都で生まれ育った頼朝は、常に京都に進出することを目指していた。しかし上総氏、千葉氏、三浦氏ら有力御家人の自重論に耳を傾けて、鎌倉に戻り武家政権を築く選択に切り替えた」と坂井教授。この判断が頼朝の基礎を固め、平家をしのぐ実力を蓄えることにつながった。

  頼朝は組織・外交・人事に手腕を発揮した。最初に頼朝は、自分に従った武士達の本拠地の支配権を認め、敵方の所領を勲功に応じて与えたという。坂井教授は「頼朝は土地を媒介として武士たちと主従関係を結び『鎌倉殿と御家人』と位置づけて組織化していった」と指摘する。兄弟といえども御家人として処遇された。核心は「御(ご)恩と奉公」だ。鎌倉殿である頼朝に対し功績を立てれば、反対給付が確約される。この点を明確に打ち出せたことが、軍事的に平家を打倒できた理由だろう。栄華を極めた平家は資産を分配済みで、新たに与えるべき土地などが残り少なかったのかもしれない。

  頼朝は対朝廷外交も進めた。後白河法皇相手に交渉を重ね、1183年(寿永2年)には実効支配する東国の支配権を公認された。同じ源氏でもライバル関係にあった木曽義仲や甲斐、信濃、摂津源氏たちに対して、頼朝が一歩リードする形になった。さらに朝廷への御家人の官位推薦権を頼朝ひとりに集中させたことで、武士団の人事権を掌握した。

  平家打倒に大きく貢献したのが異母弟の源義経(1159~1189年)だ。坂井教授は「奥州から駆けつけた義経を頼朝が重用したのは、平泉(岩手県)に本拠を持つ藤原氏の支援も期待したのだろう」とみる。斬新な騎馬戦法を駆使し戦術の天才とされる義経は、戦略面でも優れていたという。源平の戦いの帰趨(きすう)を決定付けた屋島の戦い(85年)では事前に時間をかけて畿内の水軍と連携し、平家軍の弱体化を見抜くや短期決戦に踏み切り滅亡(同年、壇ノ浦の戦い)に追い込んだ。

  一方で坂井教授は「義経は戦略家ではあっても政治家ではなかった。逆に頼朝は徹頭徹尾、政治家だった」と話す。戦(いくさ)も政治の一部として、頼朝は戦後構想を思い描きながら戦争をマネジメントしていた。ただ数え年53歳(以下、年齢は数え年で表記)で死去。坂井教授は「頼朝本人も、思いも寄らない急死だっただろう。戦時から平時体制に移行する中で対朝廷工作や後継者のルール化などを進めていた途上だったからだ」と坂井教授。

  18歳で2代将軍に就いた頼家(1182~1204年)には、これまで「未熟・横暴」の評価がついて回ったが、実際は異なるようだ。将軍の権力を制限すると考えられていた「宿老13人の合議制」も、全員が一堂に集まって協議したケースはなく、個々に頼家を補完する制度だったようだ。「頼家は宿老たちの取り次ぎを受けて訴訟を裁断していた」と坂井教授はみる。「13人の内訳は武士の御家人が9人、文官の御家人が4人。武士9人の出身地は伊豆が2人、相模4人、武蔵2人、常陸1人で各地の武士団の派閥力学を反映させた選抜だった」と坂井教授。もしも1203年、頼家の急病が北条氏の事実上のクーデターを惹起(じゃっき)させなければ「武断的性格で失敗することはあっても、頼家が晩年の頼朝の政策を継承して幕政を主導した可能性が大きい」と坂井教授はみる。朝廷との友好、社寺の保護、荒野の開発、土地の再配分、幕府内の世代交代――などだ。

 

 

閲覧履歴

    クリッピングした記事

    会員登録後、気になる記事をクリッピングできます。