天下人たちのマネジメント術

鎌倉・北条氏を飛躍させた日本型リーダーシップ 本郷和人・東大教授に聞く

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 鎌倉幕府の実質トップである「執権」北条氏は、日本史の中でも特にユニークな地位を占める。軍事的に優れていたわけでも海外の最新技術を保有していたわけでもない。それなのに静岡・伊豆地方の弱小豪族だったのが約150年も日本全国をリードできた秘訣は何か。武士政権の創始者・源頼朝(1147~99年)の外戚だったから、というのは理由にならない。北条氏が勢力を拡大したのは、むしろ頼朝没後だからだ。本郷和人・東大史料編纂所教授は「日本型リーダーシップの①敵を作らない②組織内の世論重視③ソフトパワー導入――を実践したのが北条氏だった」と分析する。現代の企業社会へのヒントにもなりそうだ。

 家康の原型?北条時政の「敵を作らない」法

 ――鎌倉時代の北条氏を「ナゾの一族」と著書『北条氏の時代』(文春新書)で指摘しています。初代・北条時政(1138~1215年)以前の北条氏はよくわからないことが多いのですね。

 「北条氏以前の日本のリーダーは、大王(おおきみ、天皇)と周辺の豪族から出ていました。源氏・平氏も元をたどれば天皇の一族です。北条氏は、地方における無名の一族が全国をけん引した最初のケースでした」

 ――時政は長女の政子(1157~1225年)と、当時流人だった源頼朝との結婚を許し、頼朝が打倒平家へ旗揚げしたときは、一族を挙げて支援しました。

 「時政の動員能力は当時50人弱でした。一国を代表する武士であれば、300人くらいの兵隊を動かせたから、北条氏は小さな存在でした。一方で時政は漢字が書け、文章の内容もしっかりしていて、当時の武士には珍しい本格的なインテリでした。朝廷との外交を一時任され、幕府の全国支配の基礎となる『守護・地頭』の設置を認めさせました」

 「それでも時政は、対平家との戦いに参加せず、幕府の要職に就くこともありませんでした。当時は比企能員(2代将軍・頼家夫人の父)が勢力を拡大していました。ただ時政は無役であっても頼朝の岳父であり、次期将軍の祖父である地位は変わりません。この時期の時政は、豊臣政権時代における徳川家康の原型を思わせます。味方を急いで増やすより、目立たないように敵を作らないようにしていったのです」

 ――家康も豊臣秀吉が健在な間は、石田三成ら奉行の施策に異を唱えず、有力大名との婚姻も控えていました。財政の苦しい大名にはこっそり資金を融通してもいました。その結果が関ケ原の戦いで、家康は自分のシンパというより、アンチ奉行勢力に担がれる形で勝利しました。

 「頼朝が急死し頼家が後を継いだ1199年に『13人の合議制』が敷かれました。各家の代表一人ずつのところに、北条時政・義時だけが親子で入りました。決定的だったのは1203年、若い後継者の頼家が重病にかかったときです。次期・3代将軍の候補者は比企系で頼家の長男・一幡か、北条系で頼朝の次男・実朝しかいません。時政は能員を謀殺し、一気に比企一族も攻め滅ぼしました(比企の乱)。和田・三浦・畠山といった有力御家人らはみな北条側で参戦しました」

 

 

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