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坂本龍馬 日本を変えた人脈と交渉力 歴史研究家の安藤優一郎氏に聞く

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 11月15日は坂本龍馬(1835~67年)の命日にあたる。大組織に属さない一介の浪人ながら、薩長同盟や大政奉還など時代を転換させた立役者として、龍馬の人気は今も根強い。歴史研究家の安藤優一郎氏は「構想力よりも交渉力・行動力で日本を改革した。未来を信じる力をエネルギーの原点とした点で、5歳年少の渋沢栄一(1840~1931年)とも共通していた」と指摘する。

 渋沢栄一と共通した未来への信頼

 ――土佐藩の下級藩士だった坂本龍馬は明治維新直前の1867年冬に、活動拠点の京都市で凶刃に倒れました。

 「身分制度の厳しい江戸時代で、龍馬は生粋の武士階級ではありませんでした。しかし比較的裕福な環境で育ち、2度も江戸留学しました。剣術は千葉周作道場で免許皆伝の腕前となり、知的能力も高く優秀でした」

 「渋沢栄一も同世代であり、豪農出身で知的に優れていました。若いときに金銭的な不自由がなかった両者に共通するのは、まだ見えない将来を信じる力でした。社会をより良く変革することが、回り回って自分の人生にも大きくプラスになるという信念を持っていました。龍馬も栄一も、局面によっては自分の生命を賭けるリスクは厭(いと)いませんでした。一方で陶酔的な自己犠牲の精神とも、自分ひとりだけの立身出世主義とも無縁でした」

 Z世代に通じる意識

 ――社会的な課題を解決するために起業するベンチャー経営者やZ世代(1990年代半ば以降に生まれた10代後半~20代前半の若者)に通じる面がありますね。そうした龍馬の信条に影響を与えたのは誰でしょうか。

 「勝海舟(1823~99年)です。海舟と出会う以前の龍馬は、土佐藩を脱藩し流行の『尊皇攘夷』を信奉する視野の狭い志士に過ぎませんでした。海舟は弟子入りした龍馬に最先端の軍艦操船術を学ばせました。軍艦は1人では動かせません。マネジメント術も習得したでしょう。後の海援隊の運営にも生かされました」

 ――当時の軍艦操船は、現在でいえば人工知能(AI)と自動運転を兼ね備えたようなインパクトのある最新技術ですね。龍馬は、最初は開国派の海舟を斬ろうとしたところ、逆に勝の見識に圧倒され、弟子入りしたというエピソードもあります。

 「それは小説的なフィクションで、実際に海舟と龍馬を結びつけたのは松平春嶽(1828~90年)でした。徳川親藩の越前藩主で、幕末の四賢侯の筆頭といわれた名君でした。下級幕臣の海舟を幕府で抜てきしたのも春嶽です。龍馬に対しても、最初に謁見した時にピンと来たのでしょう。海舟に紹介状を送りました」

 「海舟自身が、先端技術のテクノクラートとして頭角を現していった人物でした。龍馬とは12歳違いで、師弟というより年齢の離れた兄弟のような存在だったのでしょう。ボディーガードとして連れて歩き、龍馬は大久保一翁や永井尚志ら幕閣の要人にも人脈を広げました」

 

 

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