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大名人事からみた「忠臣蔵」の討ち入り 歴史研究家の安藤優一郎氏に聞く

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 「時に元禄15年(1702年)12月14日、江戸の夜風を震わせて、響くは山鹿流儀陣太鼓」……忠臣蔵のストーリーは今でも人気だ。約320年前に、赤穂義士は大石内蔵助を中心に吉良上野介邸(東京・墨田)を急襲した。旧主である浅野内匠頭(長矩)のあだ討ちを果たしたこの事件は、当時から「義挙」と称賛され、現代でも米ハーバード大の日本研究のテーマのひとつに挙げられる。他方、徳川幕府側の視点からみれば、現代の企業人事にも通じる分析もできそうだ。歴史研究家の安藤優一郎氏に聞いた。

 山陽道の大名人事は「対長州藩」がポイント

 ――播州(兵庫県)赤穂藩は、幕府にとってどんなポジションでしょうか。

 「徳川幕府の大名人事の狙いは、第一に反逆の可能性を事前に摘むことでした。とりわけ西日本における大きな雄藩への監視・けん制は欠かせません。中国地方で最も重要なのは、ズバリ長州藩(毛利家)対策でした」

 ――毛利家は関ケ原の戦い後に約120万石から約36万石まで減封され、表面上は幕藩体制に従っていても、幕府には潜在的な敵性国家(藩)とみなされていたのですね。実際に幕末の倒幕を薩摩藩とともに主導しました。 

 「徳川家康は関ケ原合戦の直後、山陽道から近畿地方への入り口にあたる姫路藩(兵庫県)に娘婿の池田輝政を据え、『西国の抑え』としました。輝政は現在の姫路城の基となる巨大な城郭を築きました。幕府は、その後も本多・松平・榊原・酒井・と親藩・譜代大名に姫路藩を担当させました。岡山藩には輝政の孫で、名君とうたわれた池田光政の池田家を転封しました」

 「2代将軍の秀忠は、豊臣家と関係の深い福島正則を改易した後に、没収した広島城へ親・徳川派の浅野家を和歌山から移しました。赤穂藩はその浅野分家です。5万石の小藩ながら、姫路と岡山の中間地点にある赤穂は軽視できない存在でした」

 ――浅野内匠頭と吉良上野介との確執は、勅使接待役の浅野が、指南役の吉良に付け届けを怠ったという従来の解釈に加え、塩田開発の技術や販路を巡って対立したとの説もあります。赤穂藩は表高(公式の収入)5万石に対して、塩販売などで実高(実際の収入)は1.5倍以上だったともいわれます。

 「赤穂藩に限らず、瀬戸内海沿いの各藩は一般的に他の地方に比べ富裕でした。海運業者らからの運上金(税金)を期待できました。急な資金が必要な時も、藩内の富裕な商人らから借りることも可能でした」

 

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