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日米開戦 なぜ避けられなかったのか 太平洋戦争開戦80年(上) 井上寿一・学習院大教授に聞く 

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 日米開戦から80年。1941年12月8日に日本は米ハワイ島を奇襲攻撃し、45年8月の終戦まで続く太平洋戦争に踏み切った。国力で20対1もの格差という米国に対し、無謀を承知で日本のリーダーらは、なぜ挑んだのか。政治学、現代史学から行動経済学まで、アカデミックな分野でのさまざまな研究が今日でも続けられている。協調外交を基本としてきた日米関係が、10年あまりで武力衝突するまでに捻(ねじ)れた背景や、戦争突入が不可避となった「ポイント・オブ・ノーリターン」を井上寿一・学習院大教授(2014~20年に同大学長)に聞いた。今日の企業経営のあり方にもヒントを与えてくれそうだ。

 1920年代の日本は米国の安全な投資先

  ――国際連盟の常任理事国であった1920年代の日本は、対米英協力と相互不干渉を基軸とした協調外交を展開しました。欧州の領土問題などを解決する国際会議でも、直接利害関係を持たない立場から重要な役割を果たしていました。一転して国際的孤立・対米対立に進むきっかけは、中国東北部で満州国を軍事力で樹立した満州事変(31年)といわれます。

  「20年代の米国にとって、日本はアジアにおける最も安全・確実・有利な投資先でした。日本にとっても米国は、中国市場以上に重要な貿易相手国でした。いかなる2カ国間関係でも対立点は存在します。しかし協調した方が国益にかなうのであれば、当然ながら、協調を優先します。日本人移民排斥問題などを抱えながら、歩調を合わせた20年代の日米関係はその典型的なケースでした」

 「20年代末の国際社会は大きな試練に直面しました。ひとつは中国ナショナリズムの台頭です。国民党の蔣介石政権は、欧米諸国との不平等条約体制をルールチェンジで回復する革命外交を目指しました。日米英は、それぞれ独自に中国に対応することを余儀なくされました。より重要なのは1929年からの世界大恐慌で、国際関係の基礎的条件が変わりました。世界経済のブロック化を巡り、米英が鋭く対立するようになったのです」

 「通商貿易の自由の原則を掲げる米国も『ニューディール』政策などで内向きになり、国際情勢に関心を払わなくなりました。両国が対立する背景にあったのは、日米ともに30年代における新しい国際秩序のグランドデザインを描けなかったことでした」

 脱退する必要なかった国際連盟

 ――1933年2月に国際連盟は、日本を非難する決議を採択し、その後、日本は脱退を正式通告しました。

 「脱退する必要はありませんでした。現在の国際連合においても、地域的な紛争で安保理常任理事国が非難されても脱退することはありません。33年当時も英国やチェコスロバキア(当時)などが最後まで妥協案を模索しました。4大常任理事国の1角を占める日本に脱退されては、国際連盟の政治的な権威と機能が失われるからです。さらに日本は脱退通告後も、6月のロンドン世界経済会議に参加し、通商貿易の自由を主張する米国と共同歩調をとりました。必ずしも孤立していたのではありませんでした」

 ――中国とは33年5月に停戦協定が結ばれました。

  「日中関係にも『非常時小康』と呼ばれる状況が生まれました。蒋介石の政権内部では、欧米派に対して対日妥協(親日)派が生まれました。満州事変をめぐって、欧米は中国の主張に耳を傾けても実効性のある支援策は取りません。それならば日本と直接2国間で交渉する以外になかったのです。対する日本でも広田弘毅外相(後に首相)らが対中関係の改善を模索していました」

   ――広田外相は「落日燃ゆ」(城山三郎著)の悲劇的な主人公として知られる一方、右翼的な「玄洋社」のメンバーでもありました。

  「広田にとって玄洋社は『郷党』であって、今日でいえば県人会的な存在でした。外交リアリストの広田は、対米英協調外交の修復を進めながら、重光葵・外務次官(後に戦時中、戦後の外相)の対中外交と役割分担をしていました。重光の外交手法は徹底的な現場主義でした。中国ナショナリズムに対応して、対等な立場から日中『提携』を促進する目的で、欧米に先駆けて在中国・南京の公使館を大使館に格上げしました」

 ――広田も重光も、観念論的な平和主義者ではなかったのですね。

   「陸軍では、将来の陸相候補のである田鉄山・軍務局長が冷徹な現状分析とともに統制していました。第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉(34年)の山本五十六・海軍側首席代表(後の元帥・連合艦隊司令長官)は、会議中に日本の現状を米国代表らに伝えました。当時の国際会議は各国が他国の実情を知る『学びの場』でもあったのです。このこともあって、真珠湾攻撃の前まで、米国がその見識を最も高く評価していた日本軍人のひとりが山本でした」

 「蔣介石政権内で『親日派』の政治的勢力が増すような支援を講じれば、結果的にウィンウィンの関係が築けたかもしれません。しかし日本からの経済協力は進展せず、それどころか中国現地の陸軍が華北分離工作によって勢力を拡大し始めました。永田は人事抗争で暗殺され、後に山本にもテロ計画の心配が起きました。外務省にもドイツ・イタリアと提携して米英と対抗しようとする『革新派』が台頭。37年に偶発的な事件から始まった日中戦争は長期化しますした。日本は宣戦布告せずに『これは戦争ではない』という態度をとり続けます。米国の中立法の発動によって、対米貿易が途絶することを防ぎました」

 

 

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