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没後100年 原敬を育てた2人の上司と3人のライバル 清水唯一朗・慶応大教授に聞く(下)

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 加藤、尾崎、後藤……原と競い合った同世代のライバル

 ――著書で原の同年代のライバルと指摘しているのは加藤高明(1860~1926年)です。ともに外務官僚の出身ながら原の政友会、加藤の憲政会と党派が別れ、原の6年後に首相に就任しました。

 「原が第4次伊藤内閣(1900~01年)で猟官運動までしながら入閣に漏れた際に、外相に就任したのが4歳年下の加藤でした。ただ原が加藤の見識を高く評価していたのは日記からも読み取れます。加藤からは政党政治の実現に向けた理念について示唆を受けました。反面教師とした面もあったでしょう。加藤は三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の女婿で爵位も得ていました。逆に原は自分が授爵しないよう工作するほどでした。世襲にも終始厳しい目を向けていました」

   ――「憲政の神様」と呼ばれる尾崎行雄(1858~1954年)も同世代のライバルでした。

 「原が最も意識するライバルです。大衆を魅了するカリスマ性では尾崎に及ばないことを、原は自覚していました。日記でも、ある時、尾崎が演説する前に衆議院が解散となってホッとしたと正直に心中を吐露しています。ただ原も演説スタイルを獅子吼(ししく)するように変え、首相就任後は積極的に海外メディアの取材を受け、自らのイメージアップと日本の軍国的な印象を払拭することに努めました」

 ――同郷の岩手県出身の後藤新平(1857~1929年)もライバルでした。

 「産業振興のために交通インフラが喫緊の課題であるとの認識は両者に共通していたものの、政策論は180度違いました。原の『狭軌』政策と後藤新平の『広軌』方針は、高度な政策論争として知られています。より大量の物資を即座に運搬できるようにする後藤案に対し、明治初期から進めてきた狭軌のまま全国ネットワークの構築を急ぐ原の案が勝利しました。一方、後藤案も戦後の東海道新幹線建設などに結実していきます」

 「原は教育施設の拡大に財閥・富豪の寄付を募りました。大正期のCSR(企業の社会的責任)事業です。米騒動の収拾のための外米輸入も、政府の買い入れよりも商社経由の民間流通の方がより効果的であるとしました。鉄道だけでなく港湾も充実させました。道路法を制定し、より物流がスムーズに進むよう促しています。ライバルの存在が原の政策能力を高めたといえるでしょう」

 「原は多数派による権力より、多数派の責任を重視しました。責任をもたせることで、政党も代議士も成長するという考え方です。部下に山のような要求を突き付けながら、できあがったものは責任をもって通しました」

 (聞き手は松本治人)

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