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没後100年 原敬を育てた2人の上司と3人のライバル 清水唯一朗・慶応大教授に聞く(下)

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 没後100年。原敬(1856~1921年)は、2021年の現在にも通じるさまざまな政策を実行した首相だ。外交では中国干渉・シベリア出兵を否定し対米重視・国際協調・中国不干渉へと大きくかじを切った。国内でも「技術立国」につながる産業振興・人材養成に重点を置き、各地から商品を効率的に集約できる全国交通網の完成を早めた。慶応大学の清水唯一朗教授は「ただ原だけが傑出していたわけではない。上司・ライバルから多くを学んだ」と分析している。

 ――近著「原敬 『平民宰相』の虚像と実像」(中公新書)では、原は陸奥宗光(1844~97年)に学んだ点が多いと指摘しました。陸奥は坂本龍馬の海援隊に参加し、日清戦争当時の外相です。

 「原が陸奥から学んだのは『チーム力』でした。非藩閥、論理的で議論をいとわない点で両者は共通していました。陸奥は心を許した腹心らと外交改革を進め、原は外務次官などとして陸奥を支えました。没後、陸奥の墓銘碑を書いたのは原です。後に政友会結成に参画した原は、まず党内の結束と自らの指導力拡大というチーム力強化に力を注ぎました。内務官僚だった床次竹二郎をはじめ、信頼できる人物を集めていきます」

  ――次の上司が伊藤博文(1841~1909年)でした。長州閥の代表格である伊藤に、「賊軍」南部藩の出身で藩閥打破を目指した原が忠誠を尽くしたのには、違和感を覚えます。

 「明治期の伊藤は、実は藩閥意識の薄い政治家でした。長州の伊藤ではなく日本の伊藤だという自負からです。憲法制定、日清戦争、政党政治など大きなテーマごとに優秀な人材を集め、達成するとチームを解散しました。原は政友会運営のために実務能力を評価され側近となりました。日本の立憲制度をつくった伊藤は、洋書を英文のまま読みこなす知性派でした。原は伊藤から政治交渉の方法と政策能力を高める専門知識の重要性を学びます。人望があって政友会総裁にふさわしい党人は他にもいました。しかし政策に通じ、首相が務まるのは原以外にいないと目されるようになりました」

 「原は上司に恵まれていたかもしれません。西園寺公望(1849~1940年)とは、お互い感情をぶつけ合う場面もあったものの、基本的に西園寺は部下の原を政敵から守りました。党内の反対派もある中、西園寺から推挙される形で、原が政友会総裁に就任しました」

 「大正天皇(1879~1926年)は、直属の上司ではないものの、原と波長が合ったようです。行幸のときには御料車に原を呼んで歓談するほどでした。偉大な明治天皇を超えねばならない大正天皇と、藩閥を乗り越えて政党政治を確立しようという原は、前時代を乗り越えるという共通目標がありました」

 

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