戦略は歴史から学べ

弱みが決める組織の成果 秀吉とイケアの「鎖構造」戦略 MPS Consulting代表 鈴木博毅

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 ビジネスの戦略を立てるうえで、歴史上の出来事から学べることは多くあります。この連載では書籍『戦略は歴史から学べ』(日本経済新聞出版)をもとに歴史上の「勝者の戦略」と優れた企業の戦略の共通点を探り、今日のビジネスにも活用できる手法を紹介します。第3回は「鎖の強さは最も弱い環によって決まる」という「鎖構造」を見抜き天下統一に突き進んだ豊臣秀吉の歩みをみてみます。

 

 豊臣秀吉 組織は最も弱い部分が全体の成果を決める

1584年 小牧・長久手の戦い
なぜ、戦いに負けた秀吉が天下を獲れたのか?
織田信長が天下を目前に本能寺の変で死去。仇を討った秀吉は、織田家の天下を奪う勢いを見せるが、信長の次男・信雄と家康の同盟軍が立ちはだかる。海道一の弓取りと言われた家康を敵にして、どのように秀吉は逆転勝利できたのか?

 ●信長死後、天下を狙う秀吉、次男の織田信雄と対立する

 1582年、本能寺で織田信長が家臣の明智光秀に討たれます。岡山県で毛利軍と対峙していた秀吉は、愕然とするも電光石火で取って返し、わずか11日後に光秀を京都の山崎で敗北させます。

 信長の長男、信忠は本能寺の変で戦死し、次男の織田信雄は織田政権を継承するつもりでした。しかし、清洲城で行われた織田家臣の会議で、秀吉は信忠の子である織田秀信を擁立します。織田家の天下を簒奪する秀吉の意図に信雄が気づき、両者は対立します。

 信雄は自身の三家老と秀吉との内通を知り、彼らを謀殺。信長亡き後、唯一秀吉に対抗できる徳川家康に助けを求め、秀吉軍と小牧・長久手の戦い(愛知県)で激突します。

 信雄・家康陣営は秀吉の不義を糾弾する書状を各地の大名に送り、四国・東北・関東・大坂などで賛同する味方を得て、「秀吉包囲網」をつくり上げます。

 信雄・家康VS秀吉の戦いは、秀吉に恨みを持つ雑賀衆が岸和田・大坂に攻め込むなど、日本各地を巻き込む広範囲の戦闘となりました。

 奇襲されて信雄側は犬山城を失い、同時に伊勢(三重県)側からも秀吉の弟、秀長に攻め込まれます。しかし犬山城の近く、羽黒で敵である森長可(ながよし)の軍勢を撃破。羽黒の敗戦で秀吉自らが大坂から出陣し、犬山城に入城。にらみ合いが続きました。

 膠着(こうちゃく)を破るため、秀吉側の池田恒興(つねおき)が家康の本拠地、三河への別働隊攻撃を提案。

 ところが、これを察知した家康は移動中の別働隊を後方から奇襲し大勝利を収めます。

 ●戦いに負けた秀吉の大逆転勝利

 家康の劇的な勝利で、京都では家康が上洛するのではないかとの噂まで流れます。

 正面攻撃が難しいことを知った秀吉は、犬山城から大坂に撤退しながら、岐阜にある信雄の拠点を攻め落とします。また信雄の家臣の九鬼嘉隆(くきよしたか)などを寝返らせ、水軍を家康の三河に上陸させて牽制。家康がすぐに救援できない三重県津市の戸木(へき)城も攻め落とします。

 秀吉は、家康ではなく信雄に圧力を集中します。心理的に追い詰めた上で、秀吉は信雄に単独講和を提案。それに信雄が応じてしまい、家康は戦闘の大義名分を失って停戦せざるをえませんでした。

 家康がつくり上げようとした秀吉包囲網に目を奪われず、最も切り崩しが容易で効果の高い、織田信雄という大義名分を奪うことで、秀吉は戦わずに勝者となったのです。

 戦闘で負けなかった家康は、自らの次男を人質に出して秀吉と講和しました。

 

 

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