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桜田門外の変 歴史を変えた季節外れの大雪 

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 東京の冬は天候の予想が難しい。1月6日は、4年ぶりに都心で10センチの積雪を記録した。2月14日も警報級の大雪となるおそれがあったが、都市部での積雪は観測されなかった。江戸・東京の歴史を振り返ると天気が影響したと思われることもある。大雪関連には、赤穂義士の討ち入り(1703年)、徳川幕府の大老・井伊直弼が殺害された桜田門外の変(1860年)、近代唯一のクーデター「二・二六事件」(1936年)が挙げられる。とりわけ桜田門外の変は、雪が決定的な役割を果たし、幕末から明治維新へと展開するスタート地点となった。

 1860年3月3日午前9時頃、江戸城に登城する途中で井伊大老は、水戸浪士ら18人に討たれた。約3分の1の少人数だった襲撃側が成功したのは、早朝から降りつける雪の中で決行したのが一番の要因だ。その結果を見届けたように、昼ごろに雪はやんだという。

 「20~30人が襲ってきても何もできやしない」

 桜田門外の変は日米修好通商条約(1858年)の調印を巡る、井伊直弼ら開国派と水戸藩などの外国を排斥する攘夷(じょうい)派との対立が原因とみられがちだ。しかし当時の幕閣や有力大名はアヘン戦争(1840年)などの海外情報を得ており、欧米諸国と戦争できないことを認識していたという。鎖国から開国への政策転換の是非に次期・14代将軍の選定が絡んだために深刻な政争に発展した。政策は政局次第、政局は人事次第というわけだ。直弼は紀州藩の徳川慶福(後の14代将軍家茂)を推し、有力な後継候補だった一橋慶喜(後の15代将軍、水戸藩出身)を退けた。さらに政敵を弾圧する「安政の大獄」(1858~1859年)を強行した。

 桜田門外の変の直前には、直弼を狙う水戸浪士の動きを幕府も把握していた。ただ忠告を受けた直弼本人は「仮に20~30人が襲ってきても何もできやしない」と、にべもなく退けたとされる。登城の際の供侍らは約60人もいる上、直弼自身が居合術の達人だった。当日の朝には襲撃を知らせる密書も届いたが、直弼は無視したという。

 約60年間に3回程度のまれな大雪

 「積雪5センチ以上という季節外れの大雪が計算違いとなった」。気象予報士で『気候で読み解く人物列伝 日本史編』(日本経済新聞出版)などの著者、田家康氏は話す。当時の3月3日は、現代では3月24日にあたる。1961年から2020年まで約60年間の気象庁のデータで、3月20日以降に東京で積雪を記録したのは9日だけという。田家氏は「5センチ以上も積もったのは1974年3月27・28日、86年の3月23日と3回だけだった」と指摘する。

 桜田門外の変の朝はまれな大雪だったわけだ。降雪で視界は悪く、井伊家の供侍たちは雨がっぱを羽織(はお)り、雪が入り込むのを防ぐため刀の柄・鞘とも厳重に革袋をかけた。このため水戸浪士らの切り込みに、とっさの対応が難しかった。

 井伊家の藩邸から桜田門まで約300~450メートル。登城する直弼の駕籠は、内堀通り沿いを進み桜田門外の前で襲撃された。大老の横死は幕府の権威を大きく失墜させ、薩摩、長州など有力外様藩や坂本龍馬ら在野の志士が活発に活動することを可能にした。明治維新は8年後だ。

 

 

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