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戦略の天才・石原莞爾を「超二流」で挫折させた陸軍人事

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 1931年(昭和6年)9月18日に、日本現代史の分水嶺となった事件が起きた。「満州事変」だ。現地に駐留していた陸軍の「関東軍」はスピード進撃で中国東北部全域を占領し、翌年に「満州国」を成立させた。国内世論は湧いたものの、各国の批判を浴びた日本は国際連盟を脱退、孤立化への道を進んだ。満州事変を立案・実行したのが関東軍・作戦主任参謀の石原莞爾(1889~1949年)だ。現在でも多くの陸軍軍人が厳しく批判される中で、例外的に石原には肯定的な評価もある。しかし最終的に師団長から中将のまま待命・予備役入り(引退)という組織上のキャリアは、表面的には「超二流」止まりにも映る。「戦略の天才」を挫折させた陸軍人事を追った。

幼年学校は首席、陸大は次席だが自由奔放

 石原は山形県鶴岡市の出身で、陸軍仙台地方幼年学校を首席で卒業した大秀才だ。軍事史研究の藤井非三四氏は「ちゃめで無精者だが学科は極めて優秀。器械体操などの術科や素行の芳しくない点を補ってあまりあった」と指摘する。陸軍大学校では次席だった。陸軍の人事は成績優秀組を、若いときから中枢(陸軍省・参謀本部・教育総監部)勤務のエリートコースにのせる。ただ石原は最初に配属された教育総監部での細かい作業に音をあげ、1年で希望の中国勤務に移った。その後留学したドイツでのエピソードがいくつか残っている。「上官とドイツ軍要人との面会を現地でセットした時は、石原が1人でしゃべって会話に入らせなかったという」と藤井氏。砲兵視察団がドイツを訪れたときも「これからは航空機を研究した方がいい」とうそぶいたそうだ。

 自由奔放な性格で、好き嫌いをためらいなく表に出すから、敵も味方も多かった。上官からは使いづらい部下だったかもしれない。しかし藤井氏は「関東軍の作戦主任参謀として赴任した時は、意外な人事の妙で石原の理解者が集まっていた」と話す。関東軍で受け入れた時の村岡長太郎・司令長官は仙台時代の石原を知っており、板垣征四郎・高級参謀は仙台幼年学校の先輩で、陸大でも重なっていた。奉天特務機関長や司令部付きの満鉄顧問らもみな仙台の幼年学校出身。交代制で中国東北部に日本から駐屯していたのは、石原の出身母体だった仙台の第2師団だった。同郷のメンバーに囲まれていた。「石原は『満州事変は仙台幼年の作品だ』と終生話していたという」と藤井氏。

満州事変で社会の閉塞感を破る立役者に

 31年当時の日本経済は、世界大恐慌の打撃から立ち直り切れておらず、重要な海外市場の中国では日本を批判するナショナリズムが盛んになっていた。陸軍省・参謀本部のエリート課長らは1年後をめどとしての武力発動を計画した。これを前倒ししたのが石原で、中国東北部を支配していた張学良が北京に出動したスキを突いた。柳条湖事件という列車事件を演出して交戦に持ち込み、約20万人対約1万人という圧倒的に不利な兵力差にも関わらず連戦連勝だった。若槻礼次郎内閣や陸軍上層部の不拡大方針を無視して占領地を拡大し、新国家設立にこぎ着けた。元首にあたる執政には清(中国)のラストエンペラー・溥儀(ふぎ)が就任した。日本を覆っていた社会の閉塞感を打破した立役者として、石原は広く一般にも知られた。

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