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戦略の天才・石原莞爾を「超二流」で挫折させた陸軍人事

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中枢の軍事官僚として手順に慣れず

 35年(昭和10年)には要職中の要職である参謀本部第2課長に就任した。ただ「第2課長は書類の通し方など中央の実務に精通し、複雑な人脈を熟知していることが欠かせない。それまで石原の中央勤務は1年にも満たなかった」と藤井氏は指摘する。軍事官僚としての手腕が問われるポストだった。組織の実情をよく知らないから、逆にできたのとされるのが、参謀本部の組織改正だ。「日本には作戦計画はあっても戦争計画がない」と石原は唱え戦争指導課を設けた。しかし「理想に向かって突き進むものの、事務の手順を確立し組織として定着させることができずに、尻切れトンボに終わった」と藤井氏。

 対外的には二・二六事件の早期鎮圧方針、宇垣一成内閣阻止などで動いた。「それでもカリスマ性は次第に失せ、陸軍内で浮き上がった存在になっていった」と藤井氏はみる。表面化したのが、1937年(昭和12年)に始まった日中戦争だ。軍備充実のために生産力増強を優先させたい石原は不拡大の方針を選んだ。しかしこれに反対を唱えたのが、石原に劣らず成績優秀な武藤章(後に軍務局長)ら秀才の部下グループだった。上層部の意見に従わなくとも、結果的に成功すれば許される。満州事変の再現をもくろむ「下克上」の風潮が、皮肉にも石原を窮地に追いやった。中国側も蒋介石の国民党と毛沢東の共産党との間で第2次国共合作が成立し、抗日を貫くことが中国の世論を統一させるカギだった。石原の不拡大方針は破綻し、古巣の関東軍参謀副長として中央から転出させられた。

 次の上司の東条英機・関東軍参謀長はメモ魔といわれた努力家タイプだ。佐官時代は交流もあった両者だが上司・部下としては肌合いが違いすぎ、感情的なレベルにまで亀裂が深まった。藤井氏は「それでも東条は石原の豊かな才能を基本的に認めていた。和解の手を差し伸べたが石原が応じなかったのだろう」と推測している。翌38年に、石原は病気を理由に無断で帰国し、陸軍は閑職の要塞司令官に赴任させ、39年に中将に進級させた。石原は京都・第16師団長に収まった。人事権を握る当時の陸軍大臣は満州事変でコンビを組んだ板垣征四郎。「評伝などでは左遷人事といわれるが、予備役入りと処分すべきところを救った温情人事だろう」と藤井氏は分析する。結局、41年春に現役引退。石原が太平洋戦争で軍事的才能を発揮する場面は無かった。

 藤井氏は満州事変後における人事ミスを指摘する。功績を認めた上で、独断専行で組織の規律を無視した責任は追及すべきだったとしている。「軍令系統から外して、近未来の戦争に関する研究組織のトップにあてれば石原の才能も生き、下克上の風潮も広まらなかった」と藤井氏。同時代の今村均大将の意見だという。

「健康管理が人事管理」の視点を欠いた陸軍

 石原に関するもうひとつの人事ミスは、健康問題を見過ごしたことだと藤井氏は話す。石原は若いときから意外に病気がちで、後半生も持病に悩まされた。「特に晩年はいら立ちを隠せなくなり、取るに足らないことでも東条と衝突した」と藤井氏。キャリア最後の京都の師団長当時は、講演会で政権や軍部を平気で批判し問題視された。「健康管理は重要な人事管理の要素。しかし陸軍はこの視点を欠いていた。石原の健康状態を適切に把握していれば、秘めた才幹をもっと大きく開花させられたかもしれない」と藤井氏は惜しんでいる。

(松本治人)

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