天下人たちのマネジメント術

関ケ原敗戦でも「無傷」 薩摩・島津氏のリスク管理術

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 ――関ケ原の戦いの後、徳川と島津の和平交渉が始まりました。関ケ原戦場で全く戦わなかったのに、毛利氏は領土を3分の1以下に削られ、長宗我部氏は改易されました。

 「義弘は謹慎し、68歳の義久が前面に立ちました。薩摩本国に在住して中央の詳しい事情は知らなかったと主張しました。家康が琉球ルートを使って明(中国)と国交回復したい意図を知り尽くしていたのです。京都の近衛ルートも下準備の交渉に活用したでしょう。他方、忠恒は鹿児島城を築城し武力衝突に備えました。家康も関ケ原直後にもう1回の激戦は避けたかったのか、加藤清正らの東軍を鹿児島と熊本の県境でストップさせました」

 「義弘が豊臣政権下で誠実・生真面目な人間性を尊敬されていたことも役に立ちました。立花宗茂や福島正則ら、損得抜きで支援を買って出る大名が相次ぎました。負傷させられた井伊直政でさえ、寛大に対応するよう口添えしました。家康の分身のような側近・本多正信が窓口となって『減封無し、ただし義久が上京し謝罪する』――の条件で妥結しました。少なくとも島津家のトップに頭を下げてもらわなければ、家康の面目が立ちません」

 ――毛利、長宗我部と比較するとダブルスタンダードとさえいえる緩やかな条件ですね。

 「ところが今度は義久が高齢、持病などを理由に上洛をいやがりました。義弘と忠恒が必死で説得しますが応じません。島津の外交術は、こうした予想外の事態からも相手の譲歩を引き出しました。家康は島津家の代表を義久から忠恒に代えることを不本意ながら認めました。忠恒は1602年末に福島正則に出迎えられて家康と京都・伏見で対面し、本領安堵の御礼を述べました。家康は2カ月後に征夷大将軍に就任しました」

 ――現代でいえば卓抜した技術力(軍事力)を持った企業が、大手グループ入りしたケースとみることもできます。組織存続のエッセンスはどこにあったのでしょうか。

 「義久・義弘・忠恒の3人の意見が一致することはめったにありませんでした。関ケ原後の和平交渉でも、2人が賛成すると1人が反対しました。逆にそのことが選択の幅を広げ、組織としての潜在力を引き出したともいえます。完全に一致しなくとも微妙なバランスを保ち続けたことが減封・処罰無しというベストの結果を招いたのでしょう。『一致団結』は追い風では強いものの、逆風のときは組織のさまざまな矛盾が一気に表面化する恐れがあります。ただ内部工作を仕掛けられた時は3人共同で排除しました」

 「義久・義弘は有名な愛猫家でした。京都・近衛家にもたびたび猫を贈りました。最晩年の義久は屋久島のハトにも凝り、義弘にも勧めました。言外に『後継者・忠恒への口出しはそろそろ止めてペットと楽しく過ごしてはどうか』という意味を持たせたのでしょう。口うるさくも愛情あふれる義父と父にもまれた忠恒は、薩摩藩・初代当主として明治初期まで260年間続く基盤を固めました」

(聞き手は松本治人)

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