天下人たちのマネジメント術

関ケ原敗戦でも「無傷」 薩摩・島津氏のリスク管理術

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 「2歳年下の義弘は兄・義久の名代(代理)として戦場や占領地に度々赴きました。生真面目で真っすぐ、律義かつ几帳面で、家臣に細かく指示を与えミスも厳しく指摘しました。一方身分に関係なく親身な気配りもできました。海戦で溺死しかけた部下を、自ら膝の上で蘇生させたこともありました。島津ファーストは兄・義久と同じですが名門としての評判・面目・世間体を重視しました。義久の方針に内心反発することもあり、晩年は確執が表面化しました。この時期は『島津4兄弟』といわれ、弟の歳久・家久も軍事的才能に恵まれた俊才でしたが、名家の貴公子であり家督を継がない解放感からか、比較的自由に振る舞ったイメージがあります」

 ――薩摩の繁栄を目指す「志」は同じでも考え方は微妙に異なる4兄弟。さらに複雑な家臣団を抱え、どうして島津は勝ち続けたのでしょうか。

 「合戦という現場での対応能力が卓越していました。九州東南部の伊東氏(高木・木崎原の戦い)、東部の大友氏(耳川の戦い)、北部の龍造寺氏(沖田畷の戦い)、秀吉派遣軍(戸次川の戦い)、明(中国)・朝鮮国軍(慶長の役)などで、コールドゲームに近い壊滅的な打撃を相手に与えました。ただ常に敵軍より少人数である不利を、天才的な戦術でカバーした勝ち方でした。圧倒的な兵力と軍備を用意して、勝つべくして勝った後半生の信長のような横綱相撲はできませんでした。トップの義久には一抹の不安もあったでしょう」

 「もうひとつの武器が外交力です。義久は琉球王国(沖縄県)と交流し、関白の近衛前久らを通じて中央の情勢に精通していました。信長が15代将軍・足利義昭を追放した直後には弟の歳久、家久を情勢分析のため畿内へ派遣しています。北九州に進出した毛利氏は、南北から大友氏をけん制するため島津氏と連携しました。大友宗麟は逆に信長と提携し、東西から毛利包囲網を敷きました。義久は毛利氏と通じつつも信長と親交を深めました。秀吉の九州征伐では大局的に勝てないとみて早めに降伏し、戦後処理で相手の譲歩を引き出しました」

 ――豊臣政権下では義久、義弘に後継者の忠恒(家久、義弘の次男で義久の婿)を加えた「三殿体制」になりました。

 「長兄の早世、跡継ぎと目されいた次兄忠恒はで思いがけなく後継者に指名され、義久・義弘にたびたび叱責されながら自分を成長させていく過程でした。中央権力と距離を置きたい義久と、逆に積極的に協力するのが発展の道とみる義弘との違いが表面化していきました。最高潮に達したのが関ケ原前夜でした。鹿児島の義久は畿内に十分な兵力を送りません。それでも関ケ原最高齢の武将(66歳)である義弘は徳川軍を相手に勇猛・奮戦しました。徳川四天王の井伊直政を負傷させ、直政はこの傷が原因で数年後に亡くなりました」

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