天下人たちのマネジメント術

関ケ原敗戦でも「無傷」 薩摩・島津氏のリスク管理術

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 天下分け目の合戦――。慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)の関ケ原の戦いは、日本史上最大の「リストラ」劇を招いた。敗北した石田三成らの西軍は90人の大名が処罰され、日本全土の3分の1以上が没収された。ところが西軍で、減封も処分も受けなかったのが薩摩(鹿児島県)の島津氏だ。具体的な敵対行為を示さなかった大名でさえ容赦なく取り潰されたのに、関ケ原で激しく戦った島津氏は「無傷」で生き抜き、今日まで系統が続いている。大切なのは負けた後。現代企業のヒントにもなる「島津に暗君なし」のリスクマネジメントを新名一仁・志学館大学非常勤講師に聞いた。

「戦国最強」の島津氏、実は時代遅れの統治システム

 ――島津氏は「戦国最強の軍団」といわれます。義久(1533~1611年)、義弘(1535~1619年)兄弟のリーダーシップのもと、九州統一に王手をかけ、豊臣秀吉の朝鮮出兵でも戦果を挙げました。関ケ原の戦いでは西軍総崩れの最中に「敵中突破」を成功させ、逆に高い評価を受けました。近著(「『不屈の両殿』島津義久・義弘」角川新書)で最新の研究成果を解説しています。

 「戦国期の島津氏は、中世体制を引きずったままの未熟で脆弱な統治システムだといわれます。よく言えば大らかで、有り体に言えば粗雑でした。当主の義久は、古くからの有力領主を滅ぼす一方で、譜代家臣の意向を尊重しました重要な案件は伊集院氏ら重臣会議へ諮問し、その結論はほとんどそのまま受け入れる政治スタイルでした。ただ納得いかない時は差し戻し再討議させました。」

 ――同世代の織田信長(1534~82年)が強烈過ぎるリーダーシップで天下統一を目指したのとは正反対ですね。義久、義弘はどういった性格だったのでしょうか。

 「義久は源頼朝以来の鎌倉時代から続く名門・島津氏の嫡男として帝王学を叩き込まれました。欲を出すな、領民をいたわれ、主君への悪口は良薬、軽々しく処罰するな――などです。本心をあまり見せない慎重なタイプで、書状も短く核心部分は使者に口上で伝えさせました。『こうあるべき』と理想を掲げて改革を推し進めるタイプではなく現実的。家中の和を重んじる『島津ファースト』を貫きながら大局的・客観的な見通しができました」

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