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由利公正、渋沢栄一……明治維新が生んだ「プロ経営者」

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渋沢は徳川家から明治政府へヘッドハンティング

 由利は金穀出納所取締という財政トップとして、会計基立金(300万両)創設と太政官札(不換紙幣)発行で賄った。「日本戦争経済史」(日本経済新聞出版)の小野圭司・防衛省防衛研究所特別研究官は「江戸時代の御用金から脱却した借り入れ策と日本近代初の紙幣発行を組み合わせた由利財政が明治政府を救った」と分析する。明治政府は政治・軍事的よりも経済的理由で崩壊する瀬戸際だったのだ。ただ不換紙幣は究極的には新政府を信用できるかどうかにかかっている。英国大使らには極めて不評で、外交関係に携わる大隈重信らが由利排斥に動いた。「国内のインフレも増進し由利が一時的に引退したのは必然的な帰結だった」と小野氏は結論する。

 廃藩置県後の1871年(明治4年)に「大蔵省」のトップに由利の再招請を計画したのが西郷だった。ただ長州(山口県)出身の井上馨ら実務型実力者らの抵抗にあい、最終的には東京府知事に落ち着いた。

 翌72年の大火で東京は被災し、由利は東京の不燃化都市を目指す「銀座煉瓦(れんが)街」と道路の大幅拡張構想を推進した。岩倉使節団中の留守政府を預けられていた西郷も支持した。しかし英国人に設計を任せ、レンガ職人の育成から始めなければならない大事業だ。国家予算の数%が必要だったとする指摘もある。東京府と健全財政を旨とする大蔵省とのバトルに発展した。

 大蔵卿の大久保利通が、条約改正交渉に必要な全権委任状を得るために一時帰国したタイミングで、由利も岩倉使節団に途中参加することになった。井上が大久保に相談したのかもしれない。由利は帰国後の府政に活かそうと、訪問各国で積極的に都市行政を視察した。しかし留守中に建設事業は東京府から大蔵省へと移管され、由利は長期不在を理由に東京府知事を解任された(銀座煉瓦街は完成しガス灯など最先端の文化を象徴する街に変身した。しかし関東大震災〔1923年〕で焼失した)。

 「由利は明治政府の生え抜き社員(旧薩長土肥藩士ら)を心服させられなかった」と安藤氏。それでも由利はその後鉱山経営、牧畜業、昌平橋(東京)の民営化構想など引く手あまただった。晩年は生命保険の社長に就任し、「興業銀行」創立要望の発起人も務めた。

 パリ滞在中に徳川幕府が瓦解し、慶喜が引退した静岡藩で経営責任者として腕を振るったのが渋沢栄一だ。安藤氏は「先進国の経済実態を体験した第2世代のプロ経営者だ」と指摘する。徳川家は約400万石から70万石への大減収で日々の生活さえ困窮する旧幕臣が続出していた。

 渋沢は1869年(明治2年)に、駿河・遠江(静岡県)の豪農商に拠出させた資金と明治政府からの拝借金を原資として商法会所を設立し、営利事業を幅広く展開した。藩内に米穀などの日用品を供給し、茶や漆器などを域外で販売した。商品を抵当とした金融業も手掛けた。「渋沢がどこまで由利を意識したかは分からないが、渋沢の静岡藩と由利の越前藩の経営方針は極めて似ていた」と安藤氏。

 渋沢へ明治政府への出仕を勧めたのは大隈重信という。旧敵への移籍に渋沢は抵抗したが、優秀な人材を抱えておくと徳川家に捲土(けんど)重来の底意ありと勘繰られる。勝海舟らが仲介して、徳川家から軍事エキスパートや欧米法思想の専門家らを新政府に転籍させていた。最終的に渋沢も大蔵省に移った。当時の最高権力者・大久保利通の財政方針に異議を唱え、対等に政策論議をかわせるほどの実力を備えていた。後に民間に転じ今日まで続く多くの企業を設立した。

 安藤氏は「由利も渋沢も徳川時代の武士の常識を超えて利益追求を肯定的に捉えた。企業の利益が公的な利益につながると考え、息長い事業展開を目指していた」と話す。現在のSDGsにつながる持続可能な事業を目指す経営理念の原点は、160年前に芽生えていたのかもしれない。渋沢の名セリフは「右手に算盤、左手に論語」だ。2021年の現在でも、渋沢を研究する経営トップや社内で研究会を催す企業が存在する理由もそこにある。

(松本治人)

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