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自民党総裁選 ビジネスにも通ずるエピソード

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選挙区の落選経験もハンディにならず

 かつて選挙区での落選経験者や地方議会出身者は総裁になれないジンクスがあったという。竹下、安倍晋太郎(安倍晋三の父)、宮沢喜一の3人が「ニューリーダー」として頭角をあらわした1980年代には「地方議会(竹下)、落選経験(安倍)、参院からの移籍(宮沢)は総裁(首相)になった前例がない」とくさされた。しかし今日では全て通用しない。田中と小泉、麻生の3人は地元での落選を経験している。田中、小泉は総選挙の初立候補での敗北で、この若いときの苦い経験が、後日の選挙巧者に変身させたのかもしれない。高市と野田にも、妙なジンクスは関係なさそうだ。

 岸田の宏池会は、1957年に発足した現存する最古の派閥だ。「宏池」の名は太平洋戦争終戦の詔勅にも関与した陽明学者・安岡正篤が「高光のうてなに休息し宏池に臨む」という中国の書の一節から命名したという。創設者の池田が初挑戦した60年の総裁選は、安保騒動で社会的に混乱した直後で、さまざまな難局も予想された。側近の大平は「アナタは保守の本命だから今回はやり過ごしてはどうか」と進言した。しかし池田は「目の前に政権がある」と所得倍増論をアピールして勝利した。

 広島県からの選出で酒豪との評判は岸田と重なる。「官僚たちの夏」(城山三郎著)では池田のモデルの池内通産相が登場し、ビールから始まり日本酒、ウイスキーと続いてブランデーで締めくくる「酒のフルコース」が描かれている。ドイツのモーゼルワインも好んだそうだ。池田は明るいが泥酔することはなく、泥酔する人を見るのも嫌ったという。

 自民党総裁の椅子に届かなかった政治家は少なくない。なかでも確実とみられていたのは緒方竹虎(1888~1956年)で、戦前の朝日新聞の副社長・主筆、小磯内閣で国務大臣、戦後は吉田内閣の副総理・官房長官、自由党総裁だった。「政局の安定は現下爛頭(らんとう)の急務」というメッセージを発表し、55年の保守合同(民主党と自由党の合併)を実現させた。初代総裁を鳩山に譲ったものの、次期党首は既定路線だった。しかし56年に急死した。

「必勝の信念も戦力になる」と言った秘書官

 自他共に認める有力候補なのに、投票による総裁公選へのチャンスが無かったのが河野一郎(1898~1965年、河野太郎の祖父)。鳩山政権成立の立役者で、農相、建設相、東京オリンピック担当相などを歴任した。64年の東京・水不足問題に手腕を発揮する一方、名匠・市川崑監督の東京五輪映画に再編集を要望するなど元祖・豪腕政治家でもあった。ポスト池田では佐藤に先んじられた。

 日韓条約へ向けての非公式の準備交渉を手掛け、竹島問題を「解決せざるをもって、解決したとみなす」の名セリフ(?)で佐藤内閣と韓国・朴正熙政権を調停した。(「竹島密約」ロー・ダニエル著)。各政権は、このパワーあふれすぎる実力者をどう処遇するかが課題のひとつだったようだ。盟友関係から最後は敵対した岸、宿敵から重用に転じた池田、重視しながら閣外へ追った佐藤――。一郎の子息で自民党総裁、衆院議長を歴任した河野洋平の青年時代はノンフィクション作家・沢木耕太郎の「若き実力者たち」で活写されている。

 有権者の心に刺さる言葉を武器とするのが政治家という職業ならば、自民総裁選を巡っては「天の声も変な声」「凡人・軍人・変人」などのセリフがいまだに記憶に残るのも納得できる。1974年に「青天の霹靂(へきれき)」とあまり知られていない熟語を使ったのが三木。もちろん本人は前日に情報をつかんでおり、徹夜で総裁受諾の言葉を練っていたという(「椎名裁定」藤田義郎著)。接戦になった1964年総裁選の前日深夜、首相秘書官・伊藤昌哉のセリフは真に迫っている。新聞社の友人から「佐藤派は楽観ムードで充満している。勝ったと言っているが、どうか」と連絡してきた。伊藤は「この段階で、必勝の信念はそれ自体戦力なのだ」と返答したという(「池田勇人とその時代」伊藤昌哉著)。

 自民党総裁選は「国会議員票」と「党員・党友票」で争う。新型コロナウイルス感染の収束がいまだ見えないなか、難局を乗り切るリーダー選びは、29日に開票される。

(松本治人)

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