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「災害が災害を招く」江戸期に学ぶコロナ時代のヒント 藤田達生・三重大副学長に聞く

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江戸期にあった医師の無料派遣、心のケア

 ――伊賀・藤堂藩(現三重県)の復興対策を最先端のケースのひとつと分析していますね。32万石という大藩で、遠隔地の外様大名が多い中では例外的に京都に近接し、幕府と信頼関係がありました。安政伊賀地震(1854年)はマグニチュード7.2の直下型地震で、死傷者は1500人を超え全・半倒壊家屋は約6400軒とされます。

 「藤堂藩は被災当日、城下の火除け地に仮小屋の設置を許可し、玄米粥の炊き出しや味噌を配給しました。この時代は、まず領民からの訴えがあってから動き出すのが通例でしたが、待たずに救済対策を始めました。雨露をしのぐ竹や渋皮も支給しました。江戸を倣って、町民による火消しシステムなどは、すでに導入していました。情報収集も迅速で、被災翌日には被害状況をまとめた第一報を江戸藩邸の藩主に送っています。町や村に1人1日玄米2合の『御救米』を配給し、家屋の被害を受けた者には別途追加しました。藩主の指示を受けて金銭も配給しました。医師の無料派遣も行いました」

 「幕府の救済対策は、金銭と米穀の支給が基本でした。一方、藤堂藩は民家の再建も援助し、建築には被災した人々を当てて当面の失業対策としました。肝心なのは人々の心のケアも手掛けたことです。1年後に犠牲者への供養、法要を藩が執り行っています。疫病が流行したときには薬を配布したり、町人総出の練り踊りも開催し、藩主が現場で観覧し褒賞金を与えました。政治の見える化ですね」

 ――復興費用はどれくらいだったのでしょうか。

 「領民に対する金銭の支給だけで約2万5000両と、藤堂藩の1年間の収入の7割を超えました。全体では優に年収を超えたでしょう。財政破綻を半ば覚悟した支援でした。当面の不足分は京・大坂などの豪商からの借り入れなどに頼りました。幕末に各藩の財政がひっぱくした原因は、よく消費経済の発展による藩主らの奢侈(しゃし)に求められます。しかしこうした復興経費も藩政を圧迫したのです」

 「先進的な藤堂藩以外で、ユニークな復旧対策を講じた大名に善光寺地震(1847年)の松代藩(10万石)・真田幸貫がいます。マグニチュード7.4の直下型地震で死傷者が約5000人。地震による直接的な被害のほかに、犀川の決壊で約6500軒に泥水が流入しました。仮小屋と御救小屋の設置、スピーディーな被害状況の把握は藤堂藩と同じですが、真田幸貫は絵師を派遣して詳細な被害絵図を作成させました。被災した善光寺の参拝客も領民・領民以外の区別無く救済措置を取りました。ちょうど7年に1度のご本尊開帳の年に当たっていて各地からの参拝が多かったのです。災害後を見据えた処置でした」

 ――災害を受けた各藩の財政立て直しはどうしたのでしょうか。

 「まず殖産興業です。藤堂藩では空き地や河川堤にウルシ・コウゾなどを植林し、武家屋敷などでミカンや柿の果実栽培、藩有林でシイタケの商品化、養蚕業の奨励などを進めました。人材を育成し、士気を高めるための藩校も設立しました。すべてが順調だったわけではありません。急速な改革は革新派と守旧派の対立を生み、農民にも変化を強いることから一揆も起きました」

 「節約だけではダメ。第1次産業の奨励だけでも足らないということです。ただ、災害対策を契機とした幕府からの経済的な独立が、思想的な自立につながった面は見逃せません」

(聞き手は松本治人)

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