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「災害が災害を招く」江戸期に学ぶコロナ時代のヒント 藤田達生・三重大副学長に聞く

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 新型コロナウイルスの感染拡大だけでなく、台風の水害など予期できない困難が国内を襲っている。実は江戸時代も災害など困難の連続に直面していた。「天下太平」のイメージとは裏腹に地震、火事、疫病、干ばつ、水害と、徳川幕府と全国の各藩は災害対策に忙しかった。将軍家のお膝元である江戸の街は優れた減災・救済システムを確立し、さらに一歩進んだ復旧対策を構築した有力藩もあったという。ウィズコロナ時代におけるマネジメントのコツは、日本の近世にあるかもしれない。藤堂藩(現三重県)の復興対策について、三重大学の藤田達生副学長に聞いた。

 ――新型コロナウイルスの対策を巡り、ワクチン接種などで政府と地方自治体のすれ違いが表面化しました。

 「江戸時代は、合戦という最悪の人災こそなくなったものの、自然災害が相次ぎました。東アジアの天候不順が冷害や干ばつを招き、『寛永の大飢饉(ききん、1641年)』の引き金となったという研究があります。享保の飢饉(1731年)や天明の飢饉(1782年)の原因には虫害が指摘されています。人々の衛生状態が悪化すると、疫病の流行につながりました。災害が災害を招くのです。大地震でも町や村が倒壊し社会が荒廃します。安政江戸地震(1855年)の後にはコレラが流行しました」

徳川幕府が作った「災害救済マニュアル

 ――江戸期は慶長地震(1605年)に始まって元禄、宝永、安政など各地で十数回の大地震を経験し、飢饉は「江戸の4大飢饉」など大小合わせ百数十回に及ぶといわれます。江戸の街は火事も多く「大火」と記録されるものだけで約50回。江戸城の天守閣や本丸御殿が焼失したケースもありました。

 「徳川幕府は減災・復興対策をシステム化させていきました。被災した人々を収容する仮小屋の設置、粥の炊き出しなどの『御救い』です。復興に向けては金銭・米の拠出や貸借も行いました。近隣大名や旗本に加え寺社・大商人など民間からの支援体制も整備していきます。いわば『救済マニュアル』を作成したのです。江戸時代後期に地震や火事が頻発しましたが、スピーディーに対策を講じました」

 ――幕府は火消し組の制度化、放火への厳罰化、大名屋敷や寺社を移転しての火よけ地・広小路の確保、瓦葺(かわらぶき)や土蔵造りの採用による不燃化などを推進しました。減災対策が法整備や都市計画に及んだのですね。

 「幕府は被災した大名らに対しても無利子で貸し出す『拝借金』などで支援しました。ただ江戸後期には幕府自体が逼迫(ひっぱく)し、大名は将軍からの財政出動を当てにできなくなりました。各藩は独自の対策を構築する必要に迫られました」

 「そのときに手本となったのが、参勤交代先の江戸で実体験した復旧システムでした。参勤交代はもともと大名に対するけん制策だったのですが、中央の先進的なノウハウを各地に普及させる効果もあったのです」

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