天下人たちのマネジメント術

インパール作戦の敗北招いた学歴エリートの限界

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複雑な派閥関係で生き残った辻参謀

 陸軍人事には派閥関係が影を落とした。長州閥と反長州閥、陸大組と非陸大組、イデオロギー上の皇道派と統制派などの図式だ。藤井氏は「派閥が多過ぎて人事当局では管理しきれない致命的な欠点があった」と分析する。反長州の中心は薩摩閥を中核とする九州連合軍だが、大分出身者は除外された。陸軍幼年学校組と中学校卒業組、士官学校における歩兵・騎兵・砲兵・工兵など各科の違い。最初に配属された「原隊」は軍人人生の故郷として特別視された。同期生でもお互い仲間を推薦し合って首相、陸軍大臣、参謀総長らを輩出したケースもあれば、深刻、凄惨な人事抗争を繰り広げた場合もあった。

 陸大でも成績1番から6番までの恩賜組、海外留学が半ば約束されている12番までの優秀組とそれ以外は出世コースも違った。現場の連隊などでの上官・部下の人間関係は、その後も長く影響した。作戦参謀の人事は陸軍省人事局ではなく参謀本部総務部で決めた。

 陸軍人事で管理しきれなかったケースが1939年の「ノモンハン事件」を引き起こした辻政信参謀だ。石川県出身、名古屋陸軍幼年学校から陸大までトップクラスの成績を挙げ続けた秀才だ。ノモンハン事件で敗北した責任を取って退役となるところを中国で戦争中の第11軍司令部が引き取った。参謀長が石川出身、名古屋幼年学校、同じ原隊と辻の直系の先輩だったという。続く支那派遣軍総司令部、台湾軍への転属も、戦場で辻の働きを認めてくれた上官が司令官、その上官と同期が現地軍司令官といった人事の縁で可能になった。41年には数少ない南方作戦の研究者として中央の参謀本部の班長に返り咲いた。さらにシンガポール攻略、ガダルカナル戦などにも加わった。

 辻はどの部署でも組織に波風を起こす問題児扱いだったという。しかし青臭いと思われながらも正論を主張し、作戦参謀でありながら戦場に出たがる現場大好き人間を、上司も憎く思うはずがない。戦いが激化している中で成績優秀、敢闘精神旺盛な辻を手放しにくい事情もあった。

 藤井氏は「複雑にあやなす人間関係が辻を組織で生き延びさせた。度量の大きい上官の下ならば、辻の能力を生かせるかもしれないという期待があった」と話す。最後は東条首相の怒りを買って左遷させられた。それでも現役生活を貫き、戦後は東南アジアに潜伏、日本の独立回復後は衆院議員にも当選した。藤井氏は「人事対象者のシーリングを見極めないと人材を埋もれさせたり、逆に無能な者がのさばるという組織に重大な損害を与えかねない」と指摘する。

 陸軍の人事は現代の企業にも通じるところがある。陸軍の失敗の教訓は企業経営にもいかすことができそうだ。

(松本治人)

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