天下人たちのマネジメント術

インパール作戦の敗北招いた学歴エリートの限界

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「冷静な情報エキスパートは野戦には向かない」

 牟田口司令官と柳田師団長は以前から感情面であつれきがあったとされる。牟田口は陸軍内の派閥「桜会」の主要メンバーだった。国家改造を目指し三月事件、十月事件といったクーデター未遂事件に桜会は関与したという。牟田口は参謀本部内で「同志」拡大に駆け回ったが、柳田は相手にしなかったとされる。

 さらに「冷静な情報エキスパートは先が読めすぎるために野戦には向かないという定説もあった」と藤井氏。実際柳田は部下の作戦計画を精査しては「これはできるかな」と口にしながら認可したという。ビルマ司令部からも消極的だという批判が出るようになり、司令部と前線の間で意見の対立が目立つようになった。柳田はインパール作戦中に追撃を躊躇(ちゅうちょ)して時間を空費し、結局解任された。

 牟田口と佐藤師団長は同じ派閥に属していた。しかし「佐藤はあるとき過激な講演を地方で行い、参謀本部の庶務課長だった牟田口が強く叱責したことで双方に悪感情が残った」と藤井氏は話す。佐藤と同期で、参謀本部の中枢である作戦部長を務めた田中新一・第18師団長は「佐藤では無理だ。俺が代わって行く」と語ったというエピソードも残っている。

 インパール作戦の兵たん軽視は、作戦開始前から佐藤らが指摘していた。戦闘の経過とともに食料が極めて乏しくなり、佐藤はたびたび撤退を進言したが、牟田口は戦闘継続を命令した。そのため双方の対立はヒートアップし、佐藤は司令部に「抗命」する形で撤退に踏み切った。中将というハイクラスの将官の抗命事件は初めてだった。「高級幹部人事になればなるほど、有能な者を集めればよいというものではなく組み合わせが重要なことをインパール作戦は教えている」と藤井氏。解任された3師団長の後任は非陸大出身者が任じられたという。

 牟田口が学歴重視の陸軍人事ルールの中で優秀な人材と評価されたことは間違いない。中尉任官のすぐ後に難関の陸大に合格し、卒業後は18年間も中央の陸軍省と参謀本部の中央を行き来した典型的なエリート軍人だ。1937年に日中戦争の端緒となった盧溝橋事件で現地の連隊長として「武力解決」を進め、41年の太平洋戦争におけるシンガポール攻略では自ら負傷しながら早期に陥落させた。しかし藤井氏は「牟田口はシンガポール攻略までが能力のシーリング(天井)だった。複数の師団を動かし補給を管理するという、より高い天井は持っていなかった」と結論付けている。

 昭和期(1945年まで)に陸軍大将になった五十数人の中で、非陸大出身者は技術系3人、その他1人に過ぎない。もともと受験資格が隊付勤務2年以上の少・中尉で勤務精励、頭脳明晰などと所属長の推薦が必要だった。受験勉強に3年前後は必要とされ、倍率は約10倍の狭き門。合格者を出せば隊の名誉になり、上官の評価も上がる。このため受験者には十分な勉強時間が持てるよう勤務上の配慮がなされたという。一方、面接試験で「大事な演習もおろそかにして勉強とは、そもそも貴官には受験資格がない」と面詰され卒倒しかけた受験生もいたという。

 陸大受験の喜悲劇を体現したのが東条首相だった。父親は陸大1期首席で陸軍きっての秀才とうたわれた英教中将。英機本人も優秀だったが陸大受験は2回とも不合格だった。落ち込む東条を見かねて永田鉄山(後の中将、陸軍省軍務局長)ら先輩の秀才エリート組が家庭教師を買って出て受験テクニックをたたき込み、3回目で合格させた。後年、家庭教師役の先輩らが対立し、自らも一方の派閥の主役を務めるとは、東条本人は思いもしなかっただろう。

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