天下人たちのマネジメント術

インパール作戦の敗北招いた学歴エリートの限界

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 今年は「太平洋戦争」(1941~45年)開戦からちょうど80年。圧倒的な国力の差があった米国との戦争になぜ踏み切ったのか。「最初から勝てない無謀な試みだった」と結論を急いでしまうと、今日にも通じるさまざまな教訓を見逃すことになりかねない。軍事史研究の藤井非三四氏は「陸軍大学卒業生の優遇や複雑な派閥の人間関係が人事政策を誤らせた」と分析する。陸軍の失敗は現代の企業社会にいくつかのヒントを与えてくれるかもしれない。

「俺には過ぎた師団長らだ」と自慢

 太平洋戦争中の1944年に敗北した「インパール作戦」は陸軍の奇襲重視、兵たん軽視、軍紀崩壊の典型的なケースとされる。ビルマ戦線からインド北東部のインパール攻略を目指した戦いで、英軍のビルマ進攻の抑止と中国・蒋介石政権への物資供給ルート遮断が目的だった。

 しかし合計約9万人を投入したともされる戦いの結果は、多くの日本兵が飢えや疫病で病死・戦死し、撤退ルートは「白骨街道」と呼ばれた。東条英機内閣が瓦解する要因のひとつにもなった。第一線を担当した3人の師団長は全員途中で解任され、1人は異例の「無断撤退」も引き起こした。しかし作戦開始の前、司令官の牟田口廉也中将は「俺には過ぎた師団長らだ」と自慢していたという。

 山内正文・第15団師団長は陸大卒業後に「一選抜」で昇進を重ねたトップクラスの中将で、駐米経験が長く陸軍きっての米国通で知られていた。柳田元三・第33師団長は、陸大の「恩賜組」(卒業時の成績が1~6番、トップは首席と呼ばれる)で在ポーランド武官などを勤めた対ソ連(現ロシア)情報関係の超A級エキスパートだ。佐藤幸徳・第31師団長も陸大卒業組。中国戦線で野戦の経験を積んだ武人肌だった。藤井非三四氏は「エース級がそろっていたが、事情通ならば不安も感じた人事だっただろう」と話す。

 まず山内師団長。米陸軍指揮幕僚大学を卒業し、駐米武官も経験した。ただ健康面に不安があったようだ。藤井氏は「東南アジアの熱帯ジャングル地帯での戦陣生活は厳しかった」と分析する。マラリアにも罹患(りかん)して指揮がとれず入院、交代を余儀なくされた。病没したのは、その2カ月後だ。

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