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エリート徳川慶喜 「説明責任」の欠如が招いた誤算 歴史研究者の安藤優一郎氏に聞く

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 最後の徳川将軍である15代・慶喜を「家康の再来」と恐れたのは、幕末の桂小五郎(後の木戸孝允)だった。徳川慶喜は幕藩体制後の構想力、武士も公家も魅了するカリスマ性、鋭い情報分析による政治力を兼ね備え、木戸のみならず西郷隆盛や岩倉具視、大久保利通らをしばしば圧倒した。2代将軍・秀忠以来久々に戦場で指揮した武人でもあった。徳川一族のエリートだった慶喜は、どこで間違えたのか。その致命的な欠点を歴史研究者の安藤優一郎氏に聞いた。

11歳で歴史の舞台に「英邁・怜悧・多才」

 木戸の長州藩にとって家康は、関ケ原の戦いの際、徳川軍には一切敵対しなかったにもかかわらず領地を3分の1以下に減封した張本人だ。慶喜に対する木戸の畏怖の念が実感として伝わってくる。さらに1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見で戦勝後、江戸進撃を急ぐ西郷は「慶喜に考える時間を与えると、どう巻き返してくるか分からない」と理由を説明したという。江戸城引き渡し後に故郷の水戸に閉居した慶喜を「水戸より静岡の方がよい」としたのは岩倉だ。大久保はその後の戊辰戦争に慶喜を利用することを考えたという。これだけ、相手方から高く評価された「敗軍の将」も珍しい。

 慶喜が歴史の舞台に登場するのは早く、1847年(弘化4年)、11歳の時だ。尊皇攘夷(じょうい)派の巨頭・水戸斉昭の7男から一橋家に養子入りした。安藤優一郎氏は「一橋家入りは将軍職就任の可能性を持ち、当時の12代・徳川家慶はそれだけ慶喜の聡明(そうめい)さを買っていたのだろう」と指摘する。病弱だった嫡子・家定(13代将軍)のスペア的な意味合いがあった。慶喜は型にはまった秀才ではなく、好奇心が極めて旺盛で武術、馬術から謡曲、囲碁、投網までこなした。晩年は写真に凝り、自動車のドライブも楽しんだという。「英邁(えいまい)、怜悧(れいり)、多才」は生涯を通した人物評となった。

 慶喜は万年将軍候補だった。ポスト13代でノミネートされ、14代で有力候補となり、15代でようやく就任した。14代の座を巡っては「一橋派vs南紀派(14代・家茂の支持勢力)」の争いと説明されるが、有り体に言えば一橋派と、慶喜だけはイヤだとする勢力との暗闘だ。「慶喜を支持したのは、幕政への参加を求める松平春嶽や島津斉彬ら親藩・外様大名、川路聖謨ら幕府の中堅実務官僚だった」と安藤氏。大老・井伊直弼ら譜代大名や大奥が反対に回った。慶喜は安政の大獄(1859年)で失脚したものの4年後に復権を果たした。

 幕末は「開国vs攘夷」「尊皇vs佐幕」といったイデオロギー・政策軸で色分けされることが多い。しかし安藤氏は「強硬派の斉昭ですら攘夷は不可能と知っており藩政改革に利用するためだったと慶喜は父をみていた」と話す。欧米列強の軍事力に対抗し得ないという現状認識を、幕閣や有力大名らは共有していたようだ。倒幕の可否についても、薩摩藩の内部でさえ朝幕融和派の力は大きかった。結局、幕末は慶喜という優秀なエリートをどう処遇するか、各勢力がどう慶喜と距離を保っていくかが大きな軸になった。政策は政局次第、政局は人事次第、人事は人物次第というわけだ。経営改革や新規事業を開始する際、「何」をするかと同等かそれ以上に、「誰」が担当するかに判断の比重が置かれるのは、現代の企業社会でもまま見られる光景だろう。

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