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エリート徳川慶喜 「説明責任」の欠如が招いた誤算 歴史研究者の安藤優一郎氏に聞く

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自前の地盤持たない弱点があらわに

 安藤氏は「慶喜は京都に樹立される新政府で引き続き政権を担当するつもりだった」と分析する。フランスの政治体制や軍制に関心を持ち、幕臣の西周に英国の政体も質問していたという。本来ならば1868年始めに慶喜は京都に戻り、新政権に参加する予定だった。しかし江戸・薩摩屋敷焼き打ちから始まる戦闘が関西に飛び火し、慶喜のもくろみは狂った。鳥羽・伏見の戦いの前日には大阪湾で幕府海軍と薩摩軍との海戦が行われ幕軍が勝利していた。

 慶喜の欠点として「自前の強い政治基盤を持てなかったこと」を安藤氏は挙げる。一橋家は8代将軍・吉宗が創設し、家臣団は幕府からの出向者らで構成した。幕府人事の都合で入れ替わり「家老も幕府の役職のひとつで、数年ほど務めると転任していった」。渋沢栄一が一橋家でどんどん抜てきされ、渡仏までさせてもらった理由はここにある。他藩の色が付いていない有能な若者は、何ものにも代え難かったのだ。慶喜は会津・桑名両藩と連携したものの、軍事面はほとんど頼り切りだった。

 さらに「慶喜は幕府内部に強い反発を買っていた」と付け加える。約5年も江戸に戻らず、出先の関西で勝手なことをしているという不満が江戸城に渦巻いていたという。慶喜は家康以来、唯一江戸城に入らなかった将軍だ。京都で就任し、鳥羽・伏見の戦い後に江戸に帰ったときはすでに将軍ではなかった。

平岡、原ら腹心は味方陣営から暗殺

 安藤氏は「自分の主張を豹変(ひょうへん)させる場面も何度かあった」と指摘する。しかしリーダーにとっては、必ずしもマイナス面ばかりではないだろう。1960年代の高度経済成長を演出した池田勇人・元首相は岸信介内閣を批判・閣僚辞任したわずか半年後に、周囲の反対を押し切って再入閣した。「君子大豹変す」などと散々皮肉られたが、次期政権を獲得し所得倍増政策を推進した。

 慶喜の最大の欠点として「アカウンタビリティー(説明責任)の欠如が決定的だった。真意を説明することをせず、根回しもせずに行動したため無用の混乱を招いた」と安藤氏は言い切る。無口だったのではなく、むしろ同時代の誰よりも雄弁だった。論理明快・言語明瞭で有力諸侯との会議や京都御所内の朝議などでの議論はほとんど不敗だったという。しかし相手を承服させるのと、心底納得させるのは微妙に違う。長年の盟友だった松平春嶽もしばしば慶喜の底意を疑ったという。

 中根長十郎、平岡円四郎、原市之進。慶喜の腹心はみな暗殺された。「天誅(てんちゅう)」で多くの生命が奪われた時代でもある。しかし安藤氏は「暗殺者は、本来ならば一番の味方陣営である幕臣や水戸藩の家臣だった」と指摘する。慶喜の説明不足が、英明であるはずの主君を側近が誤らせていると思い込む原因になったと分析している。最後の慶喜の腹心はフランスから帰国した渋沢栄一だ。既に明治時代になっていた。

(松本治人)

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