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エリート徳川慶喜 「説明責任」の欠如が招いた誤算 歴史研究者の安藤優一郎氏に聞く

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孝明天皇の信頼獲得、京都を根拠地に活躍

 安藤氏は「慶喜の政治力は、孝明天皇の信頼を勝ち得たことが大きかった」と指摘する。世情に疎い簾(れん)内の君主を、慶喜が手八丁・口八丁で丸め込んだという図式は、当てはまらない。孝明天皇自身、複雑な利害や思惑が交錯する宮中社会を引っ張ってきた大政治家だからだ。慶喜の母親は有栖川宮家の出身で、慶喜自身も自分が朝廷の一員であるという認識は強かったようだ。慶喜の忠誠心は本物だと孝明天皇の心に刺さったのだろう。

 江戸から京都に拠点を移した1863年(文久3年)以降の慶喜の手腕は、将棋名人のように冴(さ)えまくった。島津久光ら有力諸侯の政治力をそぎつつ、1864年(元治元年)にはキーマンとして「禁裏御守衛総督」に任命された。同年の「禁門の変」では当初慎重派だったものの、一転して軍勢を指揮し長州藩兵を撃退した。翌1865年(慶応元年)には日米通商条約などに勅許を得て約7年越しの懸案を解決した。「損切り」の決断も早く、1866年には自ら主導していた第2次長州征伐を中止した。家茂の急死を受けて15代将軍就任。幕府の軍制改革などを加速させた。

 1867年(慶応3年)には英仏公使らと大阪城で会見し、開明派リーダーとして印象付けた。迷走していた兵庫開港も実現した。国内では幕府打倒の計画に「大政奉還」をぶつけて、薩長ら討幕派の狙いを潰した。王政復古のクーデターも事前に情報をキャッチしていたが、あえて静観。偶発的な衝突を起こさないように京都から大阪城へ引き上げた。慶喜は武力衝突を避けつつ、大阪城の幕軍を背景に圧力をかけ続けていれば情勢有利に好転すると読んでいた。

 常に相手の1手先を読み、臨機応変に意表の妙手でリードする手腕は見事だ。遮二無二に決戦に持ち込みたい西郷、大久保の狙いはかわされ続けた。慶喜は朝廷の求めに応じ資金すら提供した。クーデター相手に資金を無心する方もする方だが、貸す方も貸す方だと思える。しかし慶喜は朝廷が政治的に譲歩してくるだろうと読んでいた。

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