天下人たちのマネジメント術

本能寺の変 光秀vs秀吉の派閥争いがクーデターに

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誰が組織のトップに情報を伝えるか

 ――組織のトップに誰が情報を入れるかは、現代でも小さくない課題です。秀吉は信長の近習との良好な関係に力を注いだといわれます。近習は信長の日常生活を補佐し、毎日の事務を司り、時には使者の役目も果たしました。

 「信長の専制化に伴い近習らの政権内部における権勢も高まった。秀吉はいんぎんな姿勢で接し、贈り物なども欠かさなかっただろう。近習のひとり、長谷川秀一との手紙のやり取りでは『今度会う時は腹蔵なく何でも話し合いたい』と記し、さらに堀秀政には『岐阜(織田信忠、信長の嫡男)への書状を、ご面倒ながらあなたに送ってもらいたい』と述べている。2人とも本能寺の変がなければ、数年内に大名に抜てきされていただろう若手エリートだ。秀吉は極めて親密な関係を築いていた」

 「光秀は畿内を担当し、近習らとは格が違う大物の信長側近という立場だ。遠隔地の司令官だった秀吉と違い、信長の周囲を固める若手らと顔を会わせる機会は多かったが、親しくなれるとは限らない。むしろ役職や年齢に差はあっても、政策方針や段取りの進め方などで潜在的なライバル関係にあっただろう」

 ――現代の企業でもライバル役員同士の勢力争いがトップ解任まで展開することがあります。光秀には旧主・足利義昭の使嗾(しそう)もあったとされます。

 「本能寺の変は怨恨説や黒幕説だけでは説明し切れない。さまざまな要因が絡み合い、そのひとつが前政権の首班だった15代将軍・足利義昭の存在だ。毛利家に亡命中だったが、足利幕府の歴史の中で将軍が京都を一時離れるのは珍しくない。歴代の将軍も情勢が好転すると亡命先から凱旋した。京都追放後も信長側から和平を申し出たように、当時の義昭はまだ一定の政治力を保持していた」

 ――信長は何度も配下の大名に裏切られています。無防備との指摘もあります。一方で自身が敵対勢力をだまし討ちにする時も良心の呵責(かしゃく)に悩んだ様子はみられません。

 「信長は徹底した合理主義者で、天下統一に備えた革新的な政治思想と改革プランをかなり明確に描いていた。人物評価の標準も役に立つかどうかで、忠誠心は2番目だった。信長は反逆行為そのものに怒るのではなく、謀反のせいで予定した改革を遅延させられることに激怒していた印象だ。光秀を含め信長に反旗を翻した荒木村重、松永弾正らは、みな畿内の有力大名だった。信長の革新性を認めつつも前時代の良い点も知り、信長のように思い切りよく捨てきれない心情があったのだろう」

(聞き手は松本治人)

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