オヤジギャグときくと、それだけでとてもさむい気になってしまう人もいるのではないだろうか。組織内ではすでに、その単語は死語で、最近その手のギャグを聞いたことすらない人もいるはずだ。また、近年、エビデンスはさておき、オヤジギャグは言語の認知という意味で脳の老化現象とまで言われてしまった。
オヤジギャグには明確な定義はないものの、中高年層の笑い(ギャグ)の1つでダジャレを意味していることが多い。なぜ、オヤジギャグは、これほどまでに負のイメージがついてしまったのだろうか。
周囲無視し会話切るダジャレが煙たがられる
1つ目の原因は、私たちが見るテレビのお笑いとの関係である。私たちは、テレビなどのバラエティー番組を通じて、お笑い芸人の「空気を読みその場の流れを壊さないコミュニケーション」に慣れすぎてしまった。特に、笑いどころは、ボケとツッコミがセットとなったものが当たり前となって久しい。
唐突に、「ダジャレを言うのはだれじゃー」などと上司が言ってしまうと、次の発言を誰もすることができず会話が止まってしまう。ダジャレが面白い面白くないというよりも、問題の所在は、会話を切ってしまうことにあるのではないだろうか。会話の流れを止めないこと――それが、いつの間にかコミュニケーションの暗黙のルールとなり、それを守らないと空気が読めないことになってしまうというわけだ。
ダジャレに対して、「さむいですよー」と軽いツッコミを入れてみても結果は変わらない。ツッコミを入れた人をも巻き込んでその場をさむい空気に覆ってしまう。
もう1つの原因は、ダジャレを言う目的にある。それを言う目的が、その場を盛り上げることだったり、笑いでその場の緊張を緩和させたりするためであれば、オヤジギャグはきっと歓迎されるはずだ。
とはいえ、多くの場合、ダジャレを言うことが自己満足で、自分の知的さを見せるためだったり、頭の回転の速さを周りに知らせるためだったり、ボキャブラリーの豊かさを見せびらかすためだったり――のように見えてしまうことが問題である。そのうえ、それらがしつこいことすらある。本人にそのつもりがなくても、周囲にはそう映るというわけだ。むろん、ダジャレではない発言でもウケ狙いに、こうした気持ちやマウントのとり方が垣間見られると多くの人は「うまい」と思っても笑えなくなってしまうだろう。
ダジャレが煙たがられてしまう理由からは、上下のコミュニケーションの注意点も見えてきそうだ。会話を切るということは、これまでの流れを無視していることにもなり、話を聞いていたのかという問題にも広がりかねない。また、自分ではそんなつもりはないかもしれないが、しつこさや自己満足的な発言、発言の背後に自分の保身が見えたり、知的さを見せびらかしていたりする姿勢が見え隠れするとそのコミュニケーションに参加している人たちは、いい気はしないだろう。こうした点までふまえると、私たちは、自分の発言が、どのように周りに伝わってしまうか絶えずチェックし、修正していかなければならない時代を生きているのかもしれない。