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本能寺の変 信長の死角は「ガバナンス軽視」 本能寺の変を読み解く(下)

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本能寺の教訓」をいかした秀吉・家康

 最近研究が始まった「乙夜之書物(いつやのかきもの)」という史料に、桐野氏は注目する。奇襲に参加していた光秀の家臣が語ったとされる内容だ。亀山城の謀議では、主君の光秀が家臣の利三を待ちかね、到着すると、わざわざ手を取って出迎えたという。当日の襲撃も、実際の戦闘は利三らに任せ、本陣は京都南部に置いたとしている。桐野氏は「詳細な分析はこれからだが、利三への絶対的な信頼と、信長の手勢が少人数なことを把握している様子が読み取れる」と話す。

 それでも21世紀の我々は、光秀の行動に不合理なものを感じてしまう。行動経済学的な視点を援用して考えてみるのも一法だろう。440年前の出来事だけにアカデミックな実証分析はできないが、光秀の思考法がうっすらと見えてくるかもしれない。

 近江・坂本城の根拠地を失っても、後で2カ国を受けとれるならば、中央を離れても領地は大幅に増える。それに拒否反応を示すのは、プロスペクト理論における損失回避の心理が働いたという可能性は残る。直後に羽柴(豊臣)秀吉が反転攻勢してきた時、利三は坂本城への撤退を進言したが光秀は拒否した。坂本城は当時安土城に次ぐ名城で、軍事的には利三案がベストだった。桐野氏は「京都の明け渡しは政治的に不利だと考えたのだろう」と推測する。本能寺の変時から積み上がっていたサンクコスト(埋没費用)にこだわって、光秀は判断を誤ったのかもしれない。

 行動経済学は、伝統的な経済学では説明しきれない「人々が経済的に不合理な選択もする」ことを研究するために生み出された。現代人の消費行動などを分析するが、最近は応用分野が広がっている。牧野邦昭・摂南大教授の「経済学者たちの日米開戦」(新潮選書)は、行動経済学の理論を用いて、太平洋戦争を決断した旧軍部ら指導者層の背景を立証した。

 「信長の第1のミスは京都に要塞=居城を築かなかったことだ」と桐野氏は断言する。本能寺を取り囲まれた信長は脱出もできず、戦闘は短時間に終了したというのが最近の学説だ。軍事的な拠点で抗戦すれば違った展開もあり得ただろう。この教訓をいかしたのが、後の天下人なった豊臣秀吉だ。光秀に勝利した後は、山崎城、妙顕寺城、聚楽第、伏見城と、晩年まで京都市中か郊外に堅固な城塞を保持した。

 もっと大きなミスとして桐野氏は「織田家の領国支配を規定する分国法(法)を制定しなかったこと」を挙げる。ガバナンス軽視だ。稲葉一鉄と光秀がヘッドハンティング巡って争った一因は、織田家に規定が存在しなかったためとされる。戦国大名の武田氏や今川氏は成文化した法律を定めたが、織田家では信長自身が、「法の上の存在」で終生変わらなかった。

 しかしその結果は、信長の裁定や判断に幻滅し、不信感の増大から信長一人を倒せば良いといった考えを生じさせかねなかった。明智光秀、荒木村重、松永久秀、別所長治、鈴木(雜賀)孫一、浅井長政…統一事業を目指し信長が版図拡大していった途上で、いったんは帰服しながら後に反旗を翻した武将は多い。この点を反省したのが徳川家康だった。家康は大名だけでなく朝廷や公家らも法的に拘束する多くの「諸法度」を定め、約260年間続く徳川幕府の基礎を固めた。

(松本治人)

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