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本能寺の変 光秀を決起させた「転職エグゼクティブ」 本能寺の変を読み解く(上)

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同じ織田家中からヘッドハント、激怒した信長

 さらに四国政策を信長が180度転換した。信長と長宗我部元親との連携は天正6年頃から始まり、当初は四国制覇を目指し中央権力と結びつきたい元親と、宿敵の本願寺・毛利の背後をけん制したい信長とはウィンウィンの関係。嫡男の長宗我部信親は、正式に信長から「信」の1字をもらった関係で、取り持ったのが光秀や利三だった。ところが天下統一が現実になりつつある同10年に至って、信長が元親の勢力伸長に待ったをかけた。進行中の阿波侵攻の停止を命じたのだ。「織田氏の軍事的支援を受けずに独力で領土拡大してきた元親は、当然反発した」と桐野氏。

 光秀と利三は、カリスマ社長のムチャぶりを何とか協力会社に受け入れさせようとする担当役員・部下といった立場に置かれた。相手側の主張に正当性があることは百も承知で、説得を繰り返した。「今後も粗略にしないと光秀も言っているので静穏に収めてくれることが大事だ」と記した利三の手紙が残っていると、桐野氏は話す。現代でも使えそうな言い回しだ。その一方で信長自身は三男・信孝と重臣の丹羽長秀らに四国侵攻の準備を進めさせていた。

 難局が続く中で、今度は利三自身が信長の激怒を買った。ヘッドハントした人材に企業が厚遇を示すのは、本人の能力のみならず、さらに多くの人材を呼び寄せてくれることを期待しているからだ。440年前の利三も、自らの人脈をいかして優秀な武人を明智家へ引き抜いた。ただ問題は、かつて客分として仕えた稲葉家からのヘッドハンティングだったことだ。何度も持って行かれてはたまらない。稲葉一鉄は信長への訴訟を起こし、怒った信長はヘッドハントされた者の差し戻しと利三の切腹を命じた。天正10年5月と推定されている。

 信長は意外に思っただろう、光秀は徹底的に抵抗した。光秀にも言い分はあった。織田家中に明確なルールはなく、以前柴田勝家の家臣をヘッドハントした時は問題視されなかった。利三を外しては明智軍団は運営できない、何ものにも代えがたいといった切羽詰まった気持ちで、光秀は信長に直接抗弁したようだ。最後に利三は助命されたものの「光秀は信長から直接打ちたたかれたということが宣教師ルイス・フロイスの『日本史』や『稲葉家譜』など複数の記録に残されている」と桐野氏。変事の約半月前のことだったらしい。

 利三が「もうついて行けない」と信長打倒を決心したのは、この時期だった。ただ光秀には、傷害まがいのパワハラ行為を受けても、抜てきを受け続けてきた信長との深く長い人間関係があった。「最終的に本能寺の奇襲を決断したのは2日前」と桐野氏は推定している。

(松本治人)

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