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本能寺の変 光秀を決起させた「転職エグゼクティブ」 本能寺の変を読み解く(上)

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「信長CEO・光秀COO」で運営した織田家

 外交面では長宗我部元親との縁戚関係を利用し、光秀の担当する対四国外交の実務面を受け持った。羽柴(後の豊臣)秀吉にも元親を紹介し、人脈作りを手伝ったという。準・プロ経営者ともいうべき働きぶりで、「光秀と利三は、斎藤道三を挟んだ何らかの縁もあったかもしれない」と桐野氏。ともに連歌や茶会に参加するなど文化レベルも共有し、上司・部下というより同志的な関係に近かった。

 織田家自体が鉄砲の大量採用を始め、大砲の使用、鉄製の大型船建造など最新技術を取り入れて急成長した当時の「ハイテク企業」だ。知将・能吏・教養人のイメージも持つ光秀は「個人的に鉄砲技術に優れ、琵琶湖上からの大砲攻撃を試みていた」と桐野氏。軍事テクノクラートであることが、織田家入りしてから4、5年で重臣の仲間入りし、さらに筆頭格まで上り詰めた光秀の原点といえる。天正年間に入って織田家は攻略地域別に重臣を配置する「方面軍」を組織した。北陸・柴田勝家、中国・羽柴秀吉、関東・滝川一益――。現代の事業部制、分社化をイメージさせる組織構成で、光秀が担当したのは本社機能が集中する近畿地区だった。

 京都周辺の「検地」(太閤検地の先駆け)や、正親町天皇が希望したという京都の「馬揃(そろ)え」イベントなど、織田家全体の重要施策の責任者にも任命された。信長が人事権を掌握するCEO(最高経営責任者)ならば、光秀はCOO(最高執行責任者)という立ち位置だ。桐野氏は「自分がナンバー2という意識を、光秀は強く持ったのではないか」とみる。

 ただ天正9、10年頃から情勢が大きく変化した。ひとつは信長の新たな人事構想だ。勝家、秀吉ら重臣には遠隔地で2カ国など大きな領地を与え、京都、安土城周辺の畿内は一回り若い世代に統治させるというものだった。信長にとって年長か同世代の重臣よりも、若い時分から長年身近に仕えさせた「信長スクール」の卒業生である側近層の方が、より使いやすいのは明らかだ。

 桐野氏は「まず秀吉の近江・長浜城は堀秀政に、前田利家の越前・府中城は菅屋長頼にという構想が進んでいたようだ」と話す。光秀も山陰地方などでの2カ国統治と引き換えに近江・坂本城が召し上げられる可能性があったと指摘する。桐野氏は「生え抜きの秀吉らは納得できても、途中入社組で、ほかの重臣より優位にあると思っていた光秀には、心理的ハードルが高かったのではないか」と推測する。

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