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東大はゴールじゃない 開成前校長の反骨人生

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 新型コロナウイルス感染が拡大する中、まもなく2021年の受験シーズンを迎える。東京大学の合格者数で39年連続の日本一を達成した進学校、開成中学高校(東京・荒川)。20年3月に同校校長の任期を全うした柳沢幸雄氏(73)は、北鎌倉女子学園(神奈川県鎌倉市)の学園長に就任した。開成、東大、米ハーバード大学と日米の教育界の王道を歩んだが、実は反骨精神にとんだ研究者だった。なお意気軒高な教育人生を進む柳沢氏を鎌倉に訪ねた。

開成から海外有名大、進学が2ケタに

 「東大が人生のゴールなんて愚の骨頂。私は開成で9年間校長を務めたが、たとえ東大合格のトップ校でなくても最高の教育機関だと言われる学校にしたいと努力してきた」。柳沢氏はこう話す。明治期の開学以来、最高学府として君臨してきた東大。日本人の「東大信仰」は根強い。

 ただ、開成の生徒に東大をすすめたことは一度もないという。むしろ海外の大学に関心を示す生徒には「米国のリベラルアーツ系大学がいいのではと色々相談に乗った。実は今年初めて海外大学への進学者が2ケタを超えた」とうれしそうに話す。20年は米エール大学や英国のケンブリッジ大学などに10人が進学した。20年の開成からの東大合格者数は185人。「海外大進学者の10人は東大にも十分合格できる生徒。東大合格にこだわっていたら海外大はすすめないでしょう」という。

 開成校長と聞けば、東大至上主義のエリート教育者というイメージだが、実際の柳沢氏の人生は少々色彩が異なる。

東大蹴って早大進学を画策

 子供の頃は体が弱く、小学校には1年遅れて入学。授業も休みがちで、中学受験で両親は大学の付属校をすすめた。兄が慶応義塾大学の付属校に通っていたので、自分もと考え、受験したら不合格。たまたま開成中学を受験したら合格した。自由な校風の進学校として知られていたが、当時は東大合格トップ校といえば、日比谷高校など都立高が全盛の時代だ。しかし、開成時代に虚弱な少年は覚醒した。

 現在でいえば、スマートフォンにあたるトランシーバーを自らつくりたいと物理部に入部。アマチュア無線の免許も取得し、仲間と楽しんだ。高2の時には文化祭準備委員会の委員長になり、リーダーシップも磨く。「リーダーは自分で体を動かすのではなく、みんなにうまく仕事を配分して回すのが役割」ということを学んだ。文化祭は現在の開成にとっても人気行事の一つで、2日間で3万人の来場者がある。

 理系科目が得意で、仲間に勉強を教えるのが好きだったので将来は教師になろうと考えた。大学受験では東大理科1類と早稲田大学理工学部(当時)に合格した。その年、1967年に「開成からの東大合格者は60人で全国11位だったと思う」と語る。ちなみに首位は日比谷、2位は都立西高、3位は灘高。通常の受験生なら喜んで東大に進学するところだが、「あまのじゃくだったので、東大は受かっても蹴ってやろうと。もともと在野精神の早稲田に憧れていた」と早大の入学手続きをしようとした。

 しかし、ここで商売人だった父親が一計を案じた。「これを好きなことに使いなと20万円の小切手を渡された」。早稲田の入学金など諸経費に充てれば、それですべて消えるが、当時の東大の授業料は月1千円、年間でも1万2千円。入学金を入れても私学と国立の学費は10倍以上の差があったという。「東大蹴り作戦」は撤回した。

 東大工学部では化学工学を専攻した。当時は大学闘争の真っただ中、社会主義に関する著書を読みふけり、仲間との議論に明け暮れた。就職先は黎明(れいめい)期のコンピューター会社を選んだ。日本ユニバック(現在の日本ユニシス)で富士銀行(現在のみずほ銀行)などのシステム開発にあたった。

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