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「桐工作」80年 失敗から学ぶ2020対中ビジネス交渉

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 日米戦争(1941~45年)の原因は日中戦争(37~45年)だ。中国からの撤兵要求を最後まで拒否したことが日米全面衝突につながった。その日中戦争は、日本優勢ながら戦況は泥沼化し、何度も試みられた和平工作は結局成功しなかった。特に「桐工作」(39~40年)と呼ばれた交渉は日本の政治、軍事リーダー層がこぞって期待した分、失望も大きかったという。80年前の対中交渉失敗の研究は、米中冷戦で国際的なビジネス環境が変わりつつある今日にヒントを与えてくれるかもしれない。防衛大の戸部良一・名誉教授に聞いた。

「誰も続けたくない戦争」昭和天皇も和平に期待

 「8年間に及んだ日中戦争は、実は双方とも続けたくない戦争だった」と戸部氏は指摘する。日本はソ連(現ロシア)への戦備充実を急がねばならず、蒋介石率いる中国の国民政府は、中国共産党との宿命的な対立を抱えていたからだという。互いの存亡をかけて日中が戦う必然性は薄かったといえる。

 戸部氏は「戦争期間中、日本は軍事作戦と並行し、ほぼ常に和平工作を試みた」と解説する。開戦1カ月後の「船津工作」に始まり、ドイツの仲介を受けた「トラウトマン工作」(37~38年)、宇垣一成外相の「宇垣工作」(38年)、国民党ナンバー2の汪兆銘を離反させた「高宗武工作」(同)などと続いた。

 その中でも日本側が重視したのが39年末から40年にかけての「桐工作」だった。「38年秋の漢口・広東作戦以降、中国奥地の重慶に引っ込んだ国民政府を軍事的に屈服させる力を日本軍は持たなかった」と戸部氏は話す。

 39年5月に始まる事実上の日ソ戦争であった「ノモンハン事件」で日本は敗北、9月にはドイツがポーランドに侵攻し第2次世界大戦が始まった。国際情勢の激変を受けて「国防力を弾力的に運用できるようにするため、日中戦争の早期解決が必要だった」と戸部氏。

 陸軍省と参謀本部は香港に拠点を置き、桐工作と名付けた、蒋介石の義弟とされる宋子良と和平への予備会談を始めた。交渉は日本側が佐官クラスなのに対して中国側は格上の将官クラスが担当し、妥結へ向けた熱意を感じさせたという。戸部氏は「昭和天皇も40年3月に桐工作への期待を表明し、6月には交渉進捗に対応して、翌月の行幸を見合わせるかどうか内大臣に下問するほどだった」という。桐工作は蒋介石、汪兆銘、板垣征四郎・派遣総軍参謀長の「3者巨頭会談」を開くことで合意し、近衛文麿首相は蒋介石あての親書を用意した。

工作失敗につながった「目的の曖昧さ」

 ところがここから一気にペースダウンしてしまう。会談の開催場所や手順など、ささいな問題で中国側が難色を示し、さらに満州国承認や駐兵問題などでの譲歩を蒸し返し要求するに至って、日本は交渉を打ち切った。「宋子良は情報機関所属のニセ者で中国側に妥結の意思はない謀略と判断したためだ」と戸部氏は説明する。日本は工作打ち切りと前後してドイツ・イタリアとの三国同盟を結んだ。和平交渉はこの後も松岡洋右外相の「松岡工作」(40年)、小磯国昭内閣の「繆斌(みょうひん)工作」(45年)などと続いたが、いずれも頓挫した。

 「桐工作」の失敗の原因は、一連の和平交渉挫折の背景と共通するという。これまでは、戦勝感に伴う国民の要求を抑制できなかった政治指導力の貧困、惰性化した当初の楽観意識などが挙げられてきた。しかし戸部氏は「最大の原因は目的の曖昧さだ」と指摘する。交渉の「核」となる日本の和平条件が一貫性に欠けていたという。38年段階では日本は蒋介石の辞任・下野にこだわったのに、桐工作の時点では全く消えていた。華北地域への日本軍駐兵要求も、当初は「防共」のためとしていたのが「東亜防衛」に変わった。

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