病を乗り越えて

上司とは?自問の日々 「部下から学ぶ」を学ぶ サッポロビール人事部プランニング・ディレクター 村本高史

記事保存

日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。

 20年前に在籍した宣伝部で、12,3人で毎週競い合ったものがある。「10文字コピー」。例えば「大人とは」、「仕事とは」、「ブランドとは」といったお題に基づいて、各人が10文字以内のコピーを考え、社外のコピーライターが上位3名を選んでくれた。

 お題の一つに当然のようになったのが、「上司とは」。1位に選ばれたのは「昼の家族」という4文字。ほのぼのとしたコピーは、日本的な当時の企業を象徴しているようだ。同じ部下の立場から見ても、「思い切りと思い遣(や)り」という9文字は理想像の一方、「生かされたり殺(やら)れたり」という苦肉の10文字は現実の反映かもしれない。当時の部長の作は「孤独な抑え投手」。その立場だからこその本音が垣間見える。

 様々な現実とイメージが錯綜(さくそう)し、今になって初めてわかることもある。上司に何を見てきたのか。自分は上司としてどうだったのか。

数多くの上司と接する中で

 これまで何人もの上司と接してきた。温かく個性豊かな人たちに育てられてきた。

 新入社員で配属されたのは、東京都内を管轄する現場の営業企画部。25人程の大所帯は3つのグループに分かれていた。全体を束ねる部長との接点は薄かった。直接の指導を受けたのは、その内のビール班をまとめる叩き上げの課長。「いろはの、い!」が口癖で、「そんなこともわからないのか」という時にこの言葉が出てくる。手書き文書の時代、まとめたメモの上の方のど真ん中に自分の印鑑を押し、お決まりの文句で叱られた。こちらもこちら、常識もないひどい有り様だった。会社に行きたくないと思う日もあった。

 すぐ上の先輩とそれでも楽しく仕事ができた中、暑い夏を迎えた。樽生ビールの需給が逼迫し、課長の唇がぴりぴりと震え出す。営業部署との関係も緊張感が走る。足りないビールをどの部署に割り当てるか、課長が交渉の矢面に立っていた。30年以上経ったが、あの時の喧騒(けんそう)は忘れない。

 部内の事務職の女性からは人気があったが、別におしゃれな人ではなかった。仕事の細かいところへの配慮が行き届いていた。駄じゃれも飛ばしていた気もする。すごいなあ。それに比べて自分は。見えない将来を手探りしていた。

 課長との仕事は半年で終わった。隣の支社の部長に栄転することになったのだ。「あなたは仕事は大丈夫だから。自信を持ちなさい」。そんなふうに思ってくれていたのか。いつになく柔らかかった表情が今も思い浮かぶ。やがてすぐ上の先輩も異動となり、自分が1人前の担当を持った。新入社員時代は半年で終わったように感じた。

 以来、記憶に残る上司は何人もいる。自分も古い人間かもしれない。背中を見た。具体的な指導よりも、振る舞い方や生きざまに影響を受けた。

 20代、本社の商品開発部時代の上司。妙に軽やかで、ビール会社なのに、あまり飲まない。いろいろな部署に話をしに行くのか、時々行方不明になり、捜索隊を出した。それなのに、周囲から絶大な信頼を誇っていた。豪胆で懐深く、笑顔も絶やさなかったが、厳しい部分も持ち合わせ、とてもまねできない人だった。

 あるいは30代、ブランド戦略部で発泡酒の立ち上げをした当時の部長。発売当初の広告宣伝に社内からの大逆風を受けた中、「広告を変えたければ、ここから今すぐ社長に電話して、俺を首にしろ」と言い放った姿に、職業人というより男としての生きざまを見た。

 幸運だと思ったこともある。30代の人事部時代、主張が強いことで有名だった上司。あるいは、40歳直前のブランド戦略部時代の終わり、誰からも評判高かった上司。何が幸運だったかというと、こちらの方が先にその部署にいたことだ。部下の方が仕事のことをよく知っているとなれば、上司は当然のごとく任せてくれる。人事制度の改定で訪れた各事業場での説明会や、CM撮影の立ち会い。営業現場や製造現場でなくても、「ここが俺の現場だ」と思えるような充実感があった。

 もちろん合わなかった上司もいる。自分がまったく異なる環境に異動した時のこと。「好きなことを自由にやってよい」と言いつつ、手の内をほとんど見せてくれない。途方に暮れるしかなかった。一線を引かれるようにされると、こちらも「そうですか」という姿勢にならざるを得ない。一緒に携わった重要な仕事もあったものの、方向性の共有と適切な距離感は本当に大事だと、身をもって感じた。

部下と過ごした日々、そして今

 そんな自分は40歳で課長職に上がったが、最初は部下のいない立場だった。特命プロジェクトの事務局を務めており、昇格で「自分が会社だ」という意識が強まりはした。

 それから1年半後、部下を抱える立場になると、責任と緊張感は一変する。新設した人財育成部門の課長職を兼務することになり、自社グループ全体を見据えた施策を立案し、運営していかなければならなかった。組織検討時の構想と違い、発足時点の部下は2名。やがて中途入社者や育児からの復職者が加わり、4名の部下を抱えた。担当職務のミッションもさることながら、部下を持つ重みを感じなかった日は1日たりともなかった。自分はこの人たちに日々の充実感を感じてもらえているのか。この人たちのためにできることを十分にやれているのか。自らに問い続けた。

 一緒に知恵を出し合い、企画を練り上げた時は、一人で仕事を進める時を超える喜びがあった。部署としての仕事の進め方に加え、組織運営のあり方を部下と侃々諤々(かんかんがくがく)と議論したこともある。そこまで強く部署のことを考えてくれていたのか。思いを聞いて気づかされたこともあった。部下から学ぶ。より若い人から学ぶ。そんなことを初めて学んだ時期だった。

 その後、異動し、46歳で部長に昇格した。より大きな組織を束ねる責任感と充実感はもちろんあったが、担当メンバーとの距離は遠くなり、一抹の寂しさも感じた。中間管理職としての課長の仕事は大変だが、部下との一体感はかけがえのないものだった。今度は課長たちとの一体感をどうつくるかが、新たな課題となった。

 残念ながら、部長を務めたのは1年に終わった。がんが再発して声帯も失い、職場復帰後、まもなく部下なしの立場になった。あれから8年近くになり、最早、誰の上司でもない。何かの参考になればと思い、自身の闘病経験や生き方を伝える機会を数年余り積み重ねてきた。直接の上司部下の関係とは異なっても、たまに思い出してもらい、誰かの心を支えたりする一人にでもなっていればよいと思う。

 「部下は上司の器を越えられない」。よく言われる話だ。はっきり言って、うそだと思う。上司が自らを戒め、たゆまぬ自己研さんを意識するにはよいのかもしれない。けれども、上司の器を越えていく部下はいくらでもいるはずだ。それを信じられるかどうかは、上司の覚悟が問われることかもしれない。

 人間は自分が気づいている以上の可能性を持っている。そうであるならば、部下一人ひとりの可能性をどう引き出していくか。様々な機会を提供していくことが大切なのだろう。共に過ごす中で場をつくり、問いかけ、時には背中を見せ、あるいはあえて突き放したりすることも。

 働く上では、成果を刈り取ることも無論重要だ。しかし、明日を創るためには耕すことこそ不可欠だ。可能性を耕し続けること。部下の可能性を、そして自らの可能性を。それが働くことの深い喜びのような気がしてならない。

村本高史(むらもと・たかし) サッポロビール株式会社人事部プランニング・ディレクター
1964年東京都生まれ。1987年サッポロビール入社。マーケティング部門と人事部門を交互に経験後、40歳以降、サッポログループの人事部門グループリーダー(課長職)を歴任。2009年、44歳の時に頸部食道がんを発症し、放射線治療で寛解。11年、サッポロビール社の人事総務部長を務めていた際にがんが再発し、手術で食道を再建すると共に、声帯を含む喉頭を全摘。その後、食道発声法を習得し、話せるようになる。14年秋以降、創造変革職(専門職)としてコミュニケーション強化等の組織風土改革に取組みつつ、闘病体験や思いを語る「いのちを伝える会」を社内等で開催。現在は社外でも講演等を行うほか、厚生労働省「がん対策推進協議会」委員も務めている。

閲覧履歴

    クリッピングした記事

    会員登録後、気になる記事をクリッピングできます。