天下人たちのマネジメント術

就活も緻密で大胆?「軍師・孔明」のキャリアアップ

記事保存

日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。

 理解ある上司、頼もしい同僚、自分を慕う部下――。最終的に魏の打倒は果たせなかったものの、孔明は組織人として理想的な人生を歩んだようにみえる。しかし実際はさまざまな摩擦があったようだ。

 まず挙兵以来の劉備の同志である関羽、張飛が反発した。劉備は「自分と孔明は君臣水魚の関係だから大目にみてくれ」と言い訳したという。エリート層は社会階層が異なる兵卒出身の軍人を見下すケースが多く、新参エリートの名士の中には、抜てきした孔明が取りなしても、張飛と口を利こうとしない者までいたという。渡辺氏は「関羽も張飛も最後は名士への劣等感から敗れていった」という。関羽は兵卒を厚遇する一方、エリート層を軽んじて敵側に投降された。張飛はエリート層を模倣するかのように兵卒につらく当たり反逆された。

「君臣水魚」の一方、深刻なせめぎ合いも

 主君の劉備ともせめぎ合いが生じた。エリート層加入で勢力が拡大する孔明に警戒感を抱いたのかも知れない。劉備陣営に参加した順では孔明の後輩にあたる益州の法正を重用し、軍師将軍の孔明より上位にあたる尚書令(行政の最高位長官)に据えた。「劉備が孔明の対抗勢力を作ろうとしたことは明白だ」(渡辺氏)。法正は私情を挟むことも多く、「公」を尊ぶ孔明とは人間としての相性も良くなかった。法正の専横を孔明に訴え出るケースもあったという。しかし「主君が信じているから」という理由で動かなかったという。孔明が名実ともに最高位に就いたのは法正の死後だった。

 三国志の有名なシーンに、劉備が孔明に「(後継者の)劉禅に才能がなければ孔明が自ら天子の位を取れ」と遺言し、孔明は涙を流しながら命を捨てて尽くすことを誓った場面がある。尋常でないほどの信頼関係があったというのが主流の解釈だが、渡辺氏は「2人の緊張関係が凝縮されていた」とみる。公式の場面であえて下克上を示唆し、逆に逆に孔明から忠誠の言葉を引き出したからだ。「君臣の情義で結ばれた関羽が相手だったら劉備は全く別の遺言をしただろう」と渡辺氏。

■孔明に必要だった? 自らの「働き方改革」

 劉備死後に全権を握った孔明の人事は、小さな事もすべてチェックし、心配りが公平で賞罰が明確だったという。魏の「九品中正法」のような人事システムを蜀は持たなかった。孔明の人物評価がそのまま官職に反映したからだ。孔明にチャンスを与えられた若手も多く、部下からは厳しくも頼もしい上司だったようだ。孔明に抜てきされた武将の李厳は1度処罰されたが、いつか許してくれると信じていたという。孔明死去の報を聞くや自分の復活の可能性はないと病死してしまったという。

 劉備・関羽・張飛ら第1世代が退場した後の蜀の第2世代について、渡辺氏は「人事配置をした孔明の人を見る目の確かさと根本的人材不足がよく分かる」としている。孔明の役職は劉備死後に使持節・丞相・録尚書事・領司隷校尉・領益州牧・武郷候。これに全て軍権が加わった。孔明に必要だったのは負担軽減の働き方改革だったのではあるまいか。五丈原の戦い(234年)の戦場における孔明の死因はライバルの魏・司馬懿仲達が予想したように過労死だった。

(松本治人)

※日経BizGateの記事を無料で定期的にお届けする会員登録をおすすめします。メルマガ、印刷ページ表示、記事クリッピングなどが利用できます。登録はこちらから

キーワード:人事、管理職、プレーヤー、人事、人材、研修、働き方改革

閲覧履歴

    クリッピングした記事

    会員登録後、気になる記事をクリッピングできます。