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就活も緻密で大胆?「軍師・孔明」のキャリアアップ

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就活生と似る? 安定より自己実現を重視

 孔明は就職先に大国は選ばなかった。西暦200年代初頭は、中国北部を統一した曹操が破竹の勢いだったが、魏に赴こうとする学友には「すでに多くの人材が余っているのに」と疑問を呈したという。渡辺氏は「孔明は自分の理想に従って自由に腕を振るえる場所を探していた」と分析する。安定より自己実現を優先するのは現代の就活性に一面似ているかもしれない。曹操のもとでは自分が割り込む余地がないと見切っていたのだろう。

 孔明の選んだ君主が劉備だった。関羽・張飛ら卓越した軍人を数多く配下に持った戦闘能力はお墨付き。加えて曹操すら認めたカリスマ性も備わっている。さらにアウトロー出身者中心の劉備集団には配下に著名なエリートがいなかった。孔明が最初の招請を断ったのは、自分を高く売り付ける、当時よく使われていた手段だったという。「財産や学力は待っていても増えないが、名声は拒否をすればするほど跳ね上がった」と渡辺氏。劉備に厚遇を約束させたのは、孔明のもくろみ通りだったかもしれない。孔明が伝授した「天下三分の計」は中国西南部の荊州・益州を拠点とし、孫権と同盟、最終的には曹操を打倒して中華を統一する構想だった。

エリート重視の姿勢を可視化させた劉備の狙い

 劉備の側にも狙いがあった。公孫さん(王へんに賛)・呂布・陶謙・曹操・袁紹・劉表と相次ぎ群雄に迎え入れられても、所詮は傭兵(ようへい)隊長どまり。一時的に著名なエリートを招いても、おとこ気の情愛を優先する劉備集団の雰囲気になじめず、多くは曹操へ再仕官するのだ。渡辺氏は「劉備の狙いは孔明だけでなく、孔明を通じてエリート集団を加入させることだった」と指摘する。

 孔明のあばら家を3度も訪れたのは、自分はエリート層を大事に重視するという劉備の姿勢を可視化させる狙いだっただろう。「三顧の礼を契機に劉備集団は質的に変容した」と渡辺氏。卓抜した孔明の外交能力で荊州南部を保有し、続いて益州にも進出。さらにエリート層をどんどん劉備政権に加入させていった。渡辺氏は「孔明の外交・内政能力は劉備に必要不可欠だった」としている。

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