病を乗り越えて

「私がサッポロだ」ビール戦争に挑んだ覚悟と喜び サッポロビール人事部プランニング・ディレクター 村本高史

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 「私」と「会社」の間にひらがな一文字を入れるとすれば、何を入れるか。よく言われる話だ。

 「私と会社」。向かい合った関係は、お互いに少し間がある。もっとも、今の時代はこれくらいの距離感がよいという考え方もあるだろう。

 「私の会社」。会社への一体感や主体性がぐっと出てくる。ただし、没入しすぎると「会社人間」になってしまいかねない。

 もう一文字、「私が会社」だとどうなるか。社内で言い合ってしまったら、委任状争奪戦のようであまり美しくないだろう。けれども、顧客を含めた社外の人たちに向かい合い、この言葉を自分に刻む時、責任と覚悟が立ち現れてくるのではないか。

激闘の記憶の中から

 1990年秋、見上げた空の青さを忘れない。大変なことになりそうだ。どうしたものか。来春の発売に向けて開発中の商品と似たものを他社が考えているという情報が入ったのだ。

 1年間、貼付いた経験豊富な先輩は直前に異動していた。20代半ば、担当としてすべてを取り仕切る筆頭部員になっていた。自分が走り回って関係部門と調整しなければならない。天を仰ぎ、商標等を相談すべく、別棟の法務部門に急いだ。

 もっとも、まだ開発段階で、お互いに正式に商品を発表したわけではない。自社の開発に自信があるなら、当面は静観しながら信じる道を行くしかない。協議で結論を下し、開発をさらに進めた。

 ビールに対する消費者の味の好みは変化していた。他社新商品の大ヒット以降、味わいよりのどごしを重視する流れは明確になり、各社は知恵を絞る。第3のビールが存在しないどころか、発泡酒も表舞台にはまったくなかった時代、ビールの売り上げは毎年伸長していた。各社が毎年春、発売する新商品が世間の話題となり、その好不調が競争関係も左右していた。

 製造部門から出されたアイデアに興味が湧いたのは、原料となる麦芽の穀皮という部分、いわば「皮」への着目。製造の初期段階である仕込の際、皮を取り除いてから仕込むと、すっきりした味のビールになるというのだ。商品化を進める際、特にネーミングには苦労した。感覚的に日本語の方がよさそうだと判断し、漢字を無数に組み合わせて検討したりもした。仕上がった上質なおいしさを表すヒントとして、日本酒には「吟醸」がある。ビールで考えても「吟」の文字がふさわしいと判断した。こうしてでき上がった「吟仕込」を1991年春に発売することになる。

 他社も同じ製法に着目していた。お互いの出方を水面下で探り合っていたに違いない。自社が注視したのは2社。その内の1社は自社と同様に「吟」を使った商品をぶつけてきた。後にビール業界で「吟吟戦争」と言われる競争の始まりだった。

そんなある日、上司から呼ばれる。「村本君、これ行ってくれない?」 見せられたのは、ある雑誌で毎年行っていたビール4社の新商品担当者の座談会の企画書。自分のチャンスだと思い、快諾した。

 当日、会場にたどり着いてみると、各社からの参加者は10歳以上年長の30~40代の管理職たち。自分が入社4年目であることを告げると、司会者が苦笑しながら言った。「サッポロさんも思いきった人を出してきましたね」。言われた途端、心に火がついた。俺がサッポロビールだ。なめるなよ。怒りを押し隠し、硬い笑顔で対応する。でも、逃げ場はない。自分でやるしかないのだ。社会人になって初めて会社を背負って立つ覚悟が決まった瞬間だった。

 他社に負けじと必死に発言した。「吟」で直接張り合う他社と激論しながら、その路線を攻撃してくる2社にも反論し、あっという間に座談会は終了した。でき上がった誌面は、少なくとも恥ずかしいものではなかった。配慮もあったかもしれない。ただ、他社と渡り合えたことが自信になったのは確かだ。翌年の同じ座談会、1社が参加者を40代から30代に替えてきたのも、自分が刺激を与えたからだと少し誇らしく思った。

 発売を迎えた「吟仕込」は予想以上に好評だった。数少なかった自社のPOSデータとはいえ、ビールの中で売り上げ1位を示す販売店があったことは感無量だった。店頭の目立つ位置で、あるいは飲食店で自分が世に出した商品を度々目にすること。これこそが、自分にとってメーカーに入った最大の喜びである。消費者の多大な支持に支えられ、その年のビール総需要の3%以上を占めるまでになった。

 もちろん、開発を担当していても、よいことばかりではない。翌春の新商品は大失敗に終わった。後に大御所となるデザイナーにも参画してもらい、満を持しての発売だったが、本格感と健康志向を同時に訴求しようとしたコンセプトメークの失敗は他ならぬ自分自身のものだった。もう1つの候補商品を急きょ秋に発売し、それを最後に開発部門から異動した。責任と覚悟を初めて実感した3年間だった。

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