天下人たちのマネジメント術

「人事は戦争と同じ」三国志・曹操の人材獲得術 渡辺義浩・早稲田大文学学術院教授に聞く(下)

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詩の実作も加え文化的価値も評価基準に

 ――曹操は後漢の最後の皇帝である献帝を擁立していました。

 「国家体制として破綻していたものの、後漢の権威はいまだ健在で、依然すべての人事権の淵源でした。曹操は自分の職権では高位過ぎて呼び出せない者は、献帝の名で招いたのです。政治的にはリスクの多い決断です。曹操の最大のライバル・袁紹は、自らが皇帝を名乗るときに不利に作用するため献帝を迎えませんでした。日本の戦国時代にも織田信長が足利将軍を奉じて上洛したケースがありますが、周囲の他国からは野心を警戒され、標的にもされます。その危険を犯してまで人事権を完全に掌握することが必要と判断したのです」

 ――曹操は人事システムに「文学」を取り入れた最初のケースでした。

 「著名な文学者を人事担当官に任命し、詩の実作を人事基準に加えました。従来の部下は慌てて作詩を学んだといいます。当時の漢詩は自らの志を歌いあげるもので、現代の就活ならば志望動機を話すことと同じです。唐の科挙の進士科にも継承され、李白や杜甫が詩を詠じたのは科挙の受験勉強という側面を持っていました。曹操は才能というカテゴリーの広い概念だけでなく、曹操自身が主観的に判断できる文化的価値も取り込もうとしたのです」

 ――人材の登用・育成という点では蜀の天才軍師である孔明も熱心でした。

 「蜀の建国理念が漢の復興にあったため、人事も旧来の考えから脱却しきれませんでした。孔明の限界です。曹操は形骸化した儒教を排除し、人事、軍事、生産、税制は後世まで残り人口5000万人を支配する隋唐律令制度の起源となったのです。厚く葬れという儒教の教えに反して、曹操墓陵も簡易で実質的な薄葬で統一しています」

 「曹操にとって人事は戦争と同じ、命懸けの攻防でした。実際、最大の功臣と言われた人物を後年、国家理念の違いが大きくなると非情な方法で排除しています。出征先の軍中に呼び、生殺与奪の権を握ってから自殺に追い込みました。人事のために戦争を起こしたのです。一方、甥(おい)は曹操軍の参謀長として重用しました。悪役の印象が強いですが、非常の人・超世の傑と時代を越えた英雄として評価する声も絶えません」

(聞き手は松本治人)

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キーワード:人事、管理職、プレーヤー、人事、人材、研修、働き方改革

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