新「企業と社員」関係論―人生100年時代に

住金副社長からロシア料理店経営へ 生涯現役モデルに 立命館大学教授 西山昭彦

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 これまでシニア人材の社外への転出と活躍を取り上げてきたが、その多くが、在職中に培ったスキルの延長上で、次の仕事につき成功している。若い時なら別だが、高齢になり畑違いの世界に飛び込むのはスキルの観点からは勧めにくい。その中で、加藤幹雄さんは製造業からまったくの異分野の飲食業に入り、今日まで経営を続けてきた。そこで直面した問題をどう克服したのだろうか。そんな疑問を抱きながら、同氏の経営する京都唯一のロシア料理レストラン「キエフ」で話を聞いた。

住友金属工業で営業で成果

 加藤幹雄さんは1961年一橋大学経済学部を卒業後、住友金属工業(現日本製鉄)に入社し、鋼管の営業を担当することになった。当時の売り上げの8割は海外で、石油掘削や輸送に使われる製品が主だった。米国が最大の市場だったが、客先は中小に限られ、メジャーと言われる大手は「バイアメリカン」で食い込みは難しかった。

 そんな中、同社はトランス・アラスカ・パイプライン(エクソン、BP等の大手がオーナー)というアラスカを縦断する超大型案件の受注に成功した。口径が48インチの高品質石油パイプはアメリカでは製造出来ず、これが日本の製品の優秀さを示すことになり、以来大手にも食い込むことができるようなった。

 このパイプの受注もあり、加藤さんは1973年ニューヨークに転勤する。日本人は10人しかいないニューヨーク事務所で、営業担当として働いた。子会社の販売会社の経営指導もしながら、責任者として商社と一緒に米国各地の油田地帯に鋼管を拡販した。

 1970年代は日本企業の海外進出の走りの時期で、高品質とCS(顧客満足)志向で市場を取り出した時期である。加藤さんは新規市場の開拓という難易度の高い分野で着実に実績をあげ、地歩を固めていったのだろう。

 「ニューヨークには高層ビルが林立し、地下鉄のネットワークが整備され、2階建てのつり橋が懸っていて、それらは大量の鉄の塊。道路も、車道と歩道の間の段差が鉄でカバーされており、鉄をこのように大量消費する社会にカルチャーショックを受けた」。そのような社会で、鉄の用途開発では遅れており当時は知名度も低い日本企業が食い込んでいくには幾多の困難があったことは想像に難くない。

再びNY駐在

 帰国後、部長に就任した加藤さんは、1988年ニューヨーク所長として2度目の海外赴任をする。その後、米国法人の社長となり、米国の全拠点を統括する。「今度は全米中を営業で回ることになり、中西部やデイープサウスといわれる南部地域でそれまで経験の無かった文化やなまりにぶつかり、いつもその広大さと奥深さに圧倒されました」

 一方で、日本がまだバブルに浮かれていた時に、米国はブラックマンデー後公共投資を増やせない法律の足かせがあり、不況の真っただ中にあった。その中での営業なので、一度目の困難とは違う新たな壁に直面したと思われる。それでも、加藤さんは信頼、誠実をベースに一歩ずつ販路を広げ、米国内での日本企業のシェアを高めていった。

 また、この時期に、両国間の自動車摩擦を契機に日本の自動車メーカーが米国に製造拠点を作ることになった。日本の鉄鋼各社も米国の鉄鋼会社に資本、技術を提供して高品質の鉄鋼製品を現地で製造して提供する動きが高まった。住金はアメリカのLTVスチールと提携した。また、現地で製造できるものは現地化を図ろうということで鋼管や自動車用の部品の製造拠点も立ち上げた。加藤さんは全米の責任者としてこれらの事業の立ち上げに追われることになったが、これでビジネスチャンスは一気に拡大した。

 加藤さんの2回目の米国駐在は時代的に、順風満帆でない、不況という逆境の中で始まった。しかし、それでも事業への挑戦や自動車メーカーへの提供をはじめその後の日本鉄鋼産業の発展に重要な足跡を作ってくれた。

 その後、1998年に副社長に就任し、営業統括、また管理部門の担当も加わった。そして、鉄鋼市況の低下に起因した深刻な鉄鋼不況期に、様々な経営改革を断行した。「どんなに業績が悪化しても、希望退職は一度もしていません」。雇用を守る日本企業の根本的な姿勢は崩れなかった。

 2003年退任したが、その直後から中国ブームで鉄鋼産業は急回復に向かう。

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