「令和」の時代を考える

200年前の光格上皇が「令和」の2019年に伝えた遺産

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 4月30日に今上陛下は退位され、約200年ぶりに上皇が誕生する。江戸後期の光格上皇(1771~1840年、天皇在位は1780~1817年)以来のことだ。光格上皇は、仁孝、孝明、明治、大正、昭和、平成と続く皇室の直系の先祖。朝廷の儀式や神事を数多く再興させるなどして、近代天皇制度の礎を築いた名君主だ。2019年の今日まで続いている光格上皇の遺産は多い。今上陛下と似通う点も少なくないという。日本近世史研究の藤田覚・東大名誉教授に聞いた。

傍流からの即位、天皇の権威向上に努める

 光格上皇は1780年、傍系の閑院宮家から9歳で即位した。本来ならば出家する予定だったが、先代の後桃園天皇が22歳で急逝し、直系の皇族は幼い皇女しか残されていなかったためだ。閑院宮家は、光格上皇の6代目前にあたる東山天皇の第6皇子が創設した宮家で、藤田教授は「後桃園天皇は、光格上皇にとって又いとこの子供にあたる」と説明する。現代感覚でいえば限りなく他人に近い、遠い親戚だったわけだ。いかに緊急避難的な即位だったか当時の事情がうかがえる。

 この幼い君主を学問好きになるよう熱心に養育したのが「後桜町上皇(当時)や光格上皇の父と兄ら周囲の皇族だった」と藤田氏。傍流意識と皇統意識を併せ持ったことが、光格上皇の生涯を貫くバックボーンとなった。

 光格上皇は廃絶されていたものを再興し、当時行われていても略式であったものを古い形式に復古するなど、さまざまな朝廷の儀式や神事を改革した。文字通り朝廷の「ルネサンス(再生)」を進めて権威を高めたわけだ。藤田氏は「簡素化されていた新嘗祭(にいなめさい)を古来の形に戻し、石清水八幡宮・賀茂神社の臨時祭を復活させるなど、光格上皇の手掛けたものは、正直数え切れない」と話す。

 その代表的なひとつが、現在の京都御所だと藤田氏は指摘する。徳川期の御所は、戦国時代での荒廃もあって随分手狭なものになっていたという。光格上皇は火事で被災した後に再建する機会をとらえ、ある公家の平安期大内裏の研究を生かして紫宸殿や清涼殿などの中心施設を平安時代と同じようなものに拡充した。

ソフトパワーを駆使して幕府と交渉

 再建資金を提供する徳川幕府は「寛政の改革」で財政再建の真っ最中だった。藤田氏は「老中の松平定信は頑強に抵抗したものの、最後は朝廷が押し切った」としている。光格上皇は現代でいえばソフトパワー活用の名手だったといえる。伝統的な権威を駆使し、現実政治の中で成果を獲得していく手腕が際立った。

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