「令和」の時代を考える

元号案を2度ボツにした「最後の元老」 「元号」「日本年号史大事典」から(7)

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文豪・森鴎外のひそかな反論と研究

 しかし、あまりの辣腕ぶりに反発は無かったのだろうか。実は意外な人物から批判が出た。明治の文豪にして陸軍省医務局長の森鴎外だ。森は親友に充てた手紙の中で「大正はベトナムの年号にある。不調べの至りだ」と厳しく指弾した。所教授は「晩年の森鴎外はそれを機に『元号』と『帝諡』(天皇のおくり名)の先例研究に打ち込んだ」と指摘する。

 森鴎外は1918年(大正6年)、宮内省図書頭に任命され、元号研究に本格的に取り組むようになり、2年後には漢学者の吉田増蔵を宮内省に招いた。この吉田が後日、歴代年号最長の「昭和」を考案することになる。

 大正改元は、メディアが激しく取材合戦する最初の元号ともなった。いち早くスクープして号外で報じたのが、朝日新聞に入社2年目の記者だった緒方竹虎(後の朝日新聞副社長、国務大臣、官房長官、自由党総裁)だ。ネタ元は枢密顧問官の三浦梧楼。緒方は学生時代から面識があり、枢密院会議の帰りを三浦邸で待ち構えて新元号を聞き出した。後に緒方は三浦と親戚関係になったという。

「幻の『光文』事件』はスクープにあらず

 スクープ合戦は昭和改元の際にも演じられた。この時は一木喜徳郎・宮内大臣を中心に選考が進んだ。天皇の病状が重くなると、一木は吉田に5条件にのっとって元号案の提出を指示した。(1)内外の年号、名字、宮殿、土地の名称などとして使用例がないこと(2)国家の一大理想を表現する(3)古典からとる(4)音階が調和している(5)字画が簡明平明――。声に読んでみて調べが良いことも条件に入っているのだから難しい。

 「吉田は60以上の案を考え出したが、最終的に昭和、元化、神化の3案を提出した」と所教授。西園寺元老や牧野伸顕・内大臣の賛成を得て、若槻礼次郎首相に伝えた。若槻首相は、別に国府種徳に考案を指示して「立成」「定業」「光文」「章明」「脇中」を得ていたが、書記官長に整理させて第1案に「昭和」を推した。

 ところが東京日々新聞(現・毎日新聞)は直前になって「光文に内定」と報じた。枢密院が全会一致で決定したのは「昭和」だったから誤報になる。当時の社長が辞意を漏らし、結局編集主幹が辞任することで収拾した。「光文がスクープされたため急ぎ昭和に差し替えた」という一種の都市伝説が生まれ、長く残っている。所教授は「詳細な審議記録をみても国府の案は早い段階で消えているから、最終段階で元号が差し替えられるようなことはあり得ない」としている。

(松本治人)

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