「令和」の時代を考える

元号案を2度ボツにした「最後の元老」 「元号」「日本年号史大事典」から(7)

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 新元号の発表まであとわずか。準備は最終段階に入っており、提出された候補から菅官房長官が3案程度に絞り込み、安倍首相が最終判断するという。ところで安倍首相は、元号案が気に入らなければ、やり直しを命じるのだろうか? 107年前の首相は、学識者の考えた候補を2度も突き返したという。「最後の元老」と呼ばれた西園寺公望(1849~1940)だ。明治・大正・昭和の3代にわたって活躍した。「元号」(文春新書)、「日本年号史大事典」(雄山閣)などを著した所功・モラロジー研究所教授に聞いた。

博学な西園寺首相が指揮して「大正」に

 第2次西園寺内閣当時、明治天皇は持病が悪化し、1912年(明治45年)7月28日に危篤状態に陥った(崩御は29日深夜)。所教授は「明治期の『皇室典範』や『登極礼』では、天皇が崩御するとただちに皇太子が践祚(せんそ)して新天皇となり、その直後に元号を改めなければならないと定めていた」と話す。西園寺は準備を急ぎ、学識者に新元号案の作成を指示した。

 時をおかずに、岡田正之・学習院教授から「乾徳」、宮内省の高島張輔図書助から「永安」が提案されたという。「西園寺は、『乾徳」』が中国・宋の年号で使われ、『永安』も蜀の宮殿名に用いられていると指摘して却下した」と所教授。

 翌29日には股野琢・内大臣秘書官長が「昭徳」、内閣書記官長室嘱託の国府種徳は「天興」を出した。所教授は「西園寺は唐の時代に『昭徳王后』という人物がおり、『天興』も拓跋氏の年号にあったとして再び却下した」と指摘する。明治天皇の病状は深刻化し、残り時間があまりなかった。

 同じ29日、国府が「大正」、宮内省御用掛の多田好問は「興化」という案を出した。同日深夜に明治天皇は崩御し、翌30日早朝には皇太子の嘉仁(よしひと)親王が践祚するという慌ただしい中、西園寺は大正を第1案、天興を第2案、興化を第3案として枢密院に提出した。枢密院は、山県有朋議長の下で全会一致で大正と可決した。

 それにしても恐るべき博覧強記ぶりだ。所教授は「『大正』はもっぱら漢籍に明るい西園寺のリードで決まった」と指摘する。後に昭和改元の際も、西園寺へは迅速に元号案が示されたという。当時ただ1人「元老」の立場にあったのだから当然だが、大正改元の時の西園寺の切れ味を関係者が覚えており、恐れをなして早めに手を打ったという面もあっただろう。

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