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庶民の世論が影響? 江戸時代の改元 「元号」「日本年号史大事典」から(6)

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「正保元年」は「まさに保元の都市」

 吉野氏は「各大名を通じて全国に伝達されるまでに改元から2週間から1カ月程度かかった」としている。改元費用は幕府が負担し、江戸時代の後期には全体で200~400石程度の費用が発生したという。

 庶民は、干支(えと)と元号を組み合わせて使っていたようだ。吉野氏は「全国の農村でも人々は元号を知っていた。借用書や過去帳、石碑などには干支ではなく元号が用いられることが多かった」としている。元号の普及に大きな効果があったのが「暦」だったという。江戸時代に流行した伊勢神社への参拝を案内する「御師(おんし)」は各地を回り、年末に伊勢神宮の御神札とともに、年号を記した伊勢暦を配った。

 江戸幕府は、元号に関する庶民の声に気を遣った。「寛永(1624~45年)は字を分解してウサ見ること永しと読む」などと京都の庶民が批評していたことは、幕府にも伝えられた。

 世論の声が元号を動かしたとみられるのが「正保」(1645~48年)だ。寛永20年に後光明天皇が即位し、1つの元号が天皇3代に用いられるケースがなかったことが正保に代わった理由だ。しかし当初から一般の評判が悪かった。

 「正保は『焼亡』と聞こえる」「保の字は人・口・木となって飢饉(ききん)を連想させる」「正保元年と書けば『正に保元の年』と読める(保元の乱が起きた年)」「正の字は『一にして止む』となる。長くは続かないだろう」――。「慶安」(48年)に代わったのは、ウワサの広がりを懸念した幕府が改元を進言した可能性が高いという。

 吉野氏は「人々が日常的に使うものだけに、元号で対応を誤れば、社会不安につながりかねないという危機管理の意識が幕府にあった」と指摘する。特に注意したのが朝廷のお膝元である京都だ。「幕府の基盤も固まりきっていない江戸初期に、神経を使って情報収集していたようだ」と吉野氏。

 江戸の街では元号を題材にした狂歌や川柳が流行した。「明和」から「安永」(1772年)に代わった時は「年号は安く永くとかはれども、諸式高くて今に明和九(めいわく)」。「嘉永」から「安政」(1854年)へ移った時には「世の中が安き政(まつ)りと成るならば嘉永さう(かわいそう)なる人が助かる」――などと読んだ。

 吉野氏は「江戸では新しい元号を紙に書き付け売り歩く商売も流行した」と言う。中には新元号を間違えたり、改元していないのに売り出す誤報(?)も少なくなかった。享和4年(1804年)に「文化」に代わる直前には「元明」と改元されたと売り歩いた者がいたという。文化14年(1817年)には改元していないのに「永長」(実際は翌年に「文政」)を、天保15年(44年)には「嘉政」(実際は翌年に「弘化」)と書いて売るなどのケースが続いた。吉野氏は「幕府はニセ元号に神経をとがらせ、どのケースも犯人を入牢や追放の処分にした」という。

 特に「嘉政」は当時の幕政への不満も背景にあったようだ。吉野氏は「日常で元号を利用しながら生活している庶民に、改元で新時代を期待する願望があった」と話す。「新たな元号に政治改革へのほのかな希望を託していたといえる」(吉野氏)。

(松本治人)

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