「令和」の時代を考える

庶民の世論が影響? 江戸時代の改元 「元号」「日本年号史大事典」から(6)

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 江戸時代は、一般の識字率が高いこともあって元号が多くの人々に使われた時代だった。江戸の幕府と京都の朝廷はきめ細かくやり取りし、元和(1615年)から慶応(1865年)までの250年間で36回改元された。新元号は幕府から各藩を通じて全国に知らされ、地方の農村でも使われた。幕府は庶民の評判に気を遣い、世論が改元を促したこともあったという。所功・モラロジー研究所教授らと「元号」(文春新書)、「日本年号史大事典」(雄山閣)を著した吉野健一・京都府立丹後郷土資料館学芸員に聞いた。

将軍の代替わりで元号交代のケースも

 江戸時代に元号を代える理由は(1)新天皇による「代始(=即位)改元」(2)地震や大火事が起きたのを一新する「災異改元」(3)干支(=えと)で大きな変革が起こる巡り合わせの年に差し替える「革年改元」のほかに、徳川将軍の代替わりによるとみられた改元もあった。吉野氏は「表向きの理由には挙げられなかったが、3代・家光の『寛永』や4代・家綱の『承応』、8代・吉宗の『享保』は将軍の代始改元の可能性が高い」と指摘する。

 改元は、朝廷か幕府のどちらかが申し入れ、両者が合意に達してから準備を進めた。新元号を考える役職は菅原道真の子孫が独占し、振るいにかけて絞った7~8案を幕府に送った。特に1、2案を大臣らが希望しているとして示すことも少なくなかった。江戸では老中、儒学者らが集まって協議し、1案に絞り込んで返答した。将軍が臨席することもあったという。

 再び戻って京。朝廷では、事前に「難陳」で誰がどのような意見を述べるかを練習するなど、入念に準備したという。幕府は江戸滞在の諸大名を総登城させて新しい元号を発表した。時には「万延」は「萬延」と略さずに書くようになどと伝えられることもあった。大江健三郎の名作は「萬延元年のフットボール」というわけだ。

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