「令和」の時代を考える

信長・秀吉・家康がこだわった「元号」 「元号」「日本年号史大事典」から(5)

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 家康は慶長20年の大坂夏の陣(1615年)で豊臣家を滅亡させると、待ちかねたかのように、同じ月に改元の準備を朝廷に申し入れた。その際に中国の元号から選ぶことも申し入れた。新元号が「元和」に決まったのは3カ月後だった。唐のほか、ベトナムでも使われたことがある。

元号の政治的重要性を理解していた家康

 家康は豊臣家の滅亡を前提として、新たな戦後体制の構想を早くから研究していたようだ。吉野氏は「朝廷・公家方面の具体な政策を担当したのは側近の金地院崇伝で、元号制定の仕組み作りについても、深く広く研究させていた」と分析する。日本はもとより、中国の故事来歴も調査させていた。

 金地院崇伝は大坂夏の陣の直前に、これからの元号は将軍が事前に確認して決定するが、手続き的には従来お通りに朝廷の「難陳」などを経た方が良いと提案していた。元和は家康が希望した元号だ。

 家康は、誰よりも元号の政治的な重要性を理解していた天下人だっただろう。それを示すのが、改元直後の「禁中並公家中諸法度」だ。元号について、中国の年号から採用すること、改元の故実などに習熟すれば日本の先例の作法に従うべきことの2点を定めた。事前に用意周到な準備と研究を重ねてきたことをうかがわせる。

 中国の年号を使おうという発想は、日本では後醍醐天皇以来で、吉野氏は「側近の発案を取り入れたのではなく、恐らく家康自身の発案だった」と推測している。家康は一面でで周囲に学者を置いて貪欲に知識を吸収する勉強家だった。かつての後醍醐天皇と同じように、自分が全ての出発点だと自負していたのかもしれない。

 江戸時代の改元は、家康は構想したように江戸の徳川幕府が主導権を握りつつ、京都の朝廷と緊密な情報共有を通して進められた。この力関係が逆転したのは、江戸期最後の元号となった「慶応」(1865年)の改元だ。

(松本治人)

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