「令和」の時代を考える

信長・秀吉・家康がこだわった「元号」 「元号」「日本年号史大事典」から(5)

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朝廷の貴族に劣らず、武士も元号にこだわった。戦国時代に入ると元号の数は減少し、永正18年、天文24年、永禄13年など長期の年号が多くなった。戦乱の中で改元の儀式が困難だったからだが、新元号が新たな時代の幕開けを象徴することに変わりはなかった。天下統一への動きとともに、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は、3者3様の形で元号に執着した。所功・モラロジー研究所教授らと「元号」(文春新書)、「日本年号史大事典」(雄山閣)を著した吉野健一・京都府立丹後郷土資料館学芸員に聞いた。

信長が切望した新元号「天正」

 まず元号にこだわったのは、信長だった。「永禄」から「元亀」に代わった7カ月後の同元年(1570年)11月に、早くも朝廷へ改元の打診があった。吉野学芸員は「朝廷は、同じ年に2度改元したのは奈良時代に1回(天平感宝から天平勝宝)あるのみで、日程的余裕もないと難色を示した」と話す。2度目は元亀3年(72年)3月。信長は「至急ぜひ」改元を希望すると朝廷に伝えた。朝廷でも実務の担当者らを人選して準備した。「しかし、室町幕府の足利義昭将軍が改元費用の調達を拒否して、最終的に沙汰止みになった」と吉野氏。

 「元亀」は信長にとって不吉な元号だった。改元した当日は北陸の朝倉義景を奇襲している真っ最中で、しかも浅井長政の離反で撤退せざるを得なかった。その後も姉川の戦い、大坂本願寺の蜂起、反信長包囲網の結成、長島の一向一揆、叡山焼き打ち、武田信玄の侵攻……と元亀年間に合戦が続いた。大将自らが慌ただしく各地を転戦しても、事態は一向に好転しない。迷信を信じない信長も、嫌気がさしただろう。

 吉野氏は「改元費用を拒んだことは信長と義昭との亀裂を大きくした」と分析する。元亀3年秋に信長が義昭の職務怠慢や不行跡を列挙した「異見17カ条」を突きつけ、その中で改元が遅れているのは義昭の責任だと責め立てた。4年夏に信長は義昭を追放した。朝廷に信長は改元を申し入れ、1週間後という異例のスピードで新たな元号「天正」(1573年)が決まった。

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